錦織圭という奇跡【第27回】
喜多文明の視点(1)

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「この名前、なんて読むんだ?」

 思い返せば、それが喜多文明さんと『錦織圭』との出会いだった。

 26年の月日をさかのぼる、真夏の東京──。

小学生の日本一を決める全国小学生テニス選手権で、名前の読み方も分からぬ地方の少年が話題をさらっていた。

錦織圭と出会って26年 IMGアカデミーの同期・喜多文明は「...の画像はこちら >>
 当時6年生の喜多さんは、大会第2シードで優勝候補。その前評判どおり勝ち進んでいた喜多さんは、ドロー表の反対の山で番狂わせを演じていた5年生の存在を知る。

「あの時の大会で優勝候補と言われていたのが、僕を含めて伊藤竜馬と会田翔、あとは小ノ澤新くらいだったと思います。そのみんながベスト8に進んでいたなかで、圭がいた。僕は埼玉県だったので知っているのは関東の子が多かったし、やっぱり強い子は大都市の子が多かったんです。そこに知らない子がいるという感じだったし、そもそも名前の読み方もわからない。

 圭は準々決勝で小ノ澤に負けたんですが、それも接戦でした。その時に見た圭の印象は、『粗削り』。小学生の頃ってぶっちゃけ、ミスしなければ勝てるんですね。当時の指導者たちも、『テニスは相手より一本でも多くボールを返せば勝てるスポーツだ』という教え方だったと思うんです。

 でも圭は、違った。

いろんなことをして相手を崩そうとする。小ノ澤との試合も結局最後はミスで負けましたが、ほかの選手とは違うプレーをする子だと思ったのは、すごく覚えていますね」

 最終的にこの大会で、喜多さんは同期の強豪たちを破り頂点に立つ。日本最強のタイトルをつかみ取った思い出は、初めて「のちの世界4位を目撃した日」としても、忘れがたいものとなった。

 喜多さんは現在、株式会社リコーテニス部の男子監督を務めている。父の手ほどきでテニスを始めたのは5歳の時。小柄ながら粘り強さと戦略性で勝利を重ね、小学5年生の時には全国大会にも初出場した。漠然と「世界」を意識したのも、その頃のこと。父親に言われたひと言がトリガーだった。

「父親に『全国一になったらIMGアカデミーの遠征に行かせてやる』と言われたんです。埼玉県のテニスクラブのコーチが毎年、希望者をアメリカ遠征に連れていくというのをやっていた。そこに行くためにも、すごくがんばった1年間だったんです」

【人生で一番くらい悔しい負け】

 喜多さんの同期には、前述の伊藤竜馬に加え、杉田祐一らのちにグランドスラムで活躍する金の卵が揃う。一学年下の錦織は同世代でトップではあるが、『14歳以下』など上の代とも戦うカテゴリーに入れば、まだまだ絶対的な存在ではなかったという。

 全国小学生選手権で名前の読み方を知ったあと、喜多さんは錦織と対戦する機会も増えていった。

そして「当時は、まったく負ける気がしなかったですね」と在りし日を振り返る。

「僕には、意地でも負けられないという気持ちもありましたし、圭はまだ粗削り。いろいろできるのでいいところまで行くけれど、最後はちょっとやりすぎちゃうところがあったのかなと思います」

 初対戦からしばらくは、喜多さんが連勝。だからこそ初めて喫した敗戦を、「人生で一番くらい悔しい負け」だと、喜多さんは回想した。

「僕が中学3年生、圭が2年生の時だったかな。『ワールドジュニア世界選手権』という14歳以下の国別対抗戦の日本代表に、僕と圭も選ばれたんです。その大会は夏にチェコで開催されるので、その前にヨーロッパでやっている『ヤングスターサーキット』という大会に5週間行きました。その時にベルギーの大会で、僕と圭が決勝に勝ち上がったんですよ。そこで初めて、圭に負けた。

 僕も小柄でしたが、当時の圭はもっと小柄だったんです。コートサーフェスはクレー(赤土)で、めっちゃ競った試合でした。お互いに粘り強く戦って、でも最後は取られて。

今まで日本での試合は全部勝っていたのに、『海外で勝てねぇのか』って......。なんか『俺って勝負弱いな』って思ったんです。自分のテニスそのものは、よかったんですよ。だから、余計に負けたのが悔しいっていうか......」

 今は『監督』として部員たちを俯瞰し、導く立場だからだろうか。過去の自分をもどこか客観視するように、喜多さんは言った。

「思えばあの試合が、圭とのレベル差を感じる序章だったんだな......って」

【渡米1年目は強いと思わなかった】

 この時のワールドジュニア世界選手権で、日本は準優勝の好結果を残した。その数カ月後、日本代表の中核を担った錦織と喜多さんは、アメリカへと渡る。ソニー・アメリカ会長などを歴任した盛田正明氏が立ち上げた『盛田正明テニス・ファンド』の支援を得て、フロリダ州のIMGアカデミーに留学することになったからだ。

 錦織、喜多さん、そして富田玄輝さんを加えた3名での旅立ち。喜多さんにとっては小学6年生時以来のIMGアカデミーであり、自力でつかみ取ったプロへの順路でもあった。

「当時の僕は、日本だったら同期で一番強いという自覚や自負はありました。13歳の時には、全国大会の16歳以下の部に出ていたくらいだったんです。

『トップ選手になるには、アメリカに行ったほうが早いな』と思っていたし、小さい頃からアメリカやヨーロッパ遠征に行って、レベルの高さも経験してきました。

そう考えると、海外に行くのは必然だった。あまり疑問も持たずに、向こうに行ったんです」

「それが運の尽きでした」と、喜多さんはいたずらっぽい笑みを浮かべた。

 IMGアカデミーでの練習の厳しさは「想像を絶していた」と、喜多さんは屈託なく打ち明ける。アカデミーの周辺には、娯楽施設などほとんどない。テニス漬けの毎日のなかで、苦しくても逃げ場がない。

 そんな日々を1年ほど繰り返した頃から、喜多さんは錦織との差を感じ始めたという。

「渡米の1年目は、まだそこまであいつが強いとは思わなかったんです。でも2年目くらいから、すごいなって思った気がしますね。同じように練習しているはずなのに、圭は結果が出始める。その頃から、僕はモチベーションが下がっちゃいました」

 淡々と当時を回想する喜多さんに尋ねてみた。今、指導者となった喜多さんから見て、なぜあの頃の錦織圭は勝てるようになっていったのかと。

 真摯にうなずく喜多さんは、「まあ、センスとか言ってしまうとつまらないので......」と前置きし、言葉を紡ぎ始めた。

【世界一を本気で信じていた】

「さっき僕は、『トップ選手になるためにアメリカに行った』と言ったじゃないですか。でも実際には、当時はレイトン・ヒューイット(オーストラリア)が世界1位だったと思うんですが、そのレベルに自分が行くなんてありえないって思っていた。だから乖離があったんですよね、自分が対外的に言う言葉と、本心との間には。

 もちろん、『修造チャレンジ』とかで目標を聞かれたら『世界一です!』って言うんですよ、大きな声で。そう言わないと怒られるので、全員言う。でもたぶん、本気で行けると思っていたのは、圭だけだったんじゃないかと思うんです。

 圭だってIMGに行ったばかりの時は、試合でも、アカデミー内の練習試合でも負けていた。でも、『今は勝てないけれど、きっと勝てるようになる』って思いながら練習していたんだろうなと思うんです」

 のちに喜多さんは、あの頃に抱いた疑問の答え合わせをすべく、錦織に尋ねたという。

「今、世界4位じゃん。子どもの頃から、そんなふうになれると思っていたの?」と。

 果たして錦織は、何事もないように「本当に思っていた」と言ったという。

「圭は、『毎日やっていれば、きっと勝てるようになると思っていた』って言うんです。

最初は全小(全国小学生テニス選手権)や全日本ジュニアでも勝ったり負けたりのレベルだったのに、海外に行くようになって、勝てなかった選手にも勝てるようになった。それが楽しかった......って」

 戦いの舞台が日本からアメリカ、そして世界へと広がっても、錦織のテニスに向き合う姿勢が変わることはなかった。

「ずっとその道を信じてやり続けたのは、本当にすごいなって思います」

 素朴な喜多さんの言葉に、純粋な敬意が込められていた。

(つづく)

◆喜多文明の視点(2)>>「日本に帰りたいという言葉は一切、聞かなかった」


【profile】
喜多文明(きた・ふみあき)
1989年1月21日生まれ、埼玉県出身。5歳からテニスを始め、2000年に全国小学生テニス選手権で優勝を飾る。中学時代に錦織圭らとともに渡米し、フロリダのIMGアカデミーへテニス留学。世界のトップジュニアの環境で研鑽を積む。帰国後、慶應義塾大学に進学し、1年生で全日本学生テニス選手権(インカレ)男子ダブルスを制覇。大学卒業後にリコーへ入社し、実業団で長年活躍。現在は同テニス部男子チームの監督を務めている。2010年全日本テニス選手権男子ダブルス準優勝。JTAランキング最高13位(ダブルス)。身長170cm。

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