「田中角栄」のニュース (180件)
-
歴代総理の胆力「幣原喜重郎」(1)「軍人は政治に関与すべからず」の信念
昭和20(1945)年8月17日、終戦への道筋をつけて退陣した鈴木貫太郎総理のあとは、占領軍を迎えるという未曽有の事態を円滑に進めるため、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)が就任した。日本...
-
歴代総理の胆力「安倍晋三(第1次)」(1)第1次政権の政策実績はほぼゼロ
安倍晋三は、前任の小泉純一郎総理の退陣を受け、戦後生まれの初の総理大臣として登場した。平成18(2006)年9月20日の自民党総裁選で、対抗馬の麻生太郎、谷垣禎一に圧勝したものだった。祖父は、かの「安...
-
三原じゅん子 恥を知れ!大臣になれない芸能過去(1)芸能人好きの総理にすり寄り
小泉進次郎が初入閣!田中角栄の記録を塗り替える38歳、男性議員では史上最年少の入閣にワイドショーは大騒ぎだ。しかし、その陰でもうひとつのサプライズ人事計画が進行していたのだ。ツッパリアイドルから女優、...
-
歴代総理の胆力「小泉純一郎」(1)良くも悪しくも「言葉の人」
自民党議員の顔色より、国民の支持をバックボーンとした、良くも悪しくも「言葉の人」であった。小泉純一郎までの戦後総理大臣は、圧倒的多くが言葉を選ぶ「重心の低さ」を売りにしていたが、これとはまったく逆の断...
-
歴代総理の胆力「高橋是清」(4)「是清流」現代サラリーマン講話
こうした高橋の生き様、とりわけ転職歴20数回の中で培った“教訓”は現代サラリーマン必読の講話となって残っている。『是清翁遺訓』『随想録』から、名語録を挙げておくことにする。「仕事を本位とする以上は、そ...
-
丸山議員は『地頭が足りない』鈴木宗男参院議員
元北海道・沖縄開発庁長官で維新の鈴木宗男参院議員はブログで、N国の丸山穂高衆院議員がツイッターで「(竹島は)戦争で取り返すしかないんじゃないですか」と戦争を肯定するかの書き込みをしたことに「丸山氏は『...
-
歴代総理の胆力「岸信介」(2)笹川良一が仰天したエピソード
その岸は、東京帝国大学法学部を首席で卒業したが、あえて官僚の「本流」である大蔵省や内務省に入らず、農商務省に入っている。すでに、学生時代にして、以後の日本の課題が産業の興隆いかんにかかることを読んでい...
-
歴代総理の胆力「麻生太郎」(1)べらんめえ口調で人気もあったが…
麻生太郎政権は、安倍晋三、福田康夫と2代の「政権放り出し」を受けたあとで誕生した。折から、国民も「政権放り出し」にはさすがにアキレたが、自民党の支持率も大きく落ち、メディアの多くは次の総選挙で自民党は...
-
歴代総理の胆力「鈴木貫太郎」(1)「軍人は政治に関与すべからず」の信念
太平洋戦争の戦局がいよいよ不利となり、東条英機政権が崩壊やむなしで次に担ぎだされたのが、陸軍出身、朝鮮総督の小磯国昭だった。しかし、小磯はまさに、「ひねり出された総理」と言えた。時に、知略に富んだ陸軍...
-
歴代総理の胆力「橋本龍太郎」(2)「硬構造ビル」政権の限界
橋本内閣は、自民党が社会党の村山富市を「自社さ」3党連立政権の首相に担ぎ、小沢一郎が率いた非自民連立政権から政権を奪還、村山内閣がその役目を終えたのちに発足した。その橋本政権スタート時は、「若武者」登...
-
歴代総理の胆力「橋本龍太郎」(1)怖いものなしの「風切り龍太郎」
「小沢(一郎)はナタの魅力だ。黙々と仕事をして、やるときはドスンと決断する。一方の橋本(龍太郎)はカミソリだな。頭脳明敏、スパッとした切れ味が魅力だ」総理大臣となった田中角栄は、多士済々が蝟集(いしゅ...
-
歴代総理の胆力「桂太郎」(2)名妓、女傑「お鯉」の存在
これにより、桂は西園寺公望に政権を譲ることとし、一方で西園寺からは、ポーツマス条約賛成を取り付けて面目を保った。その後の桂は、この西園寺と交互に内閣を率いることで第三次内閣まで務めることになるが、第二...
-
歴代総理の胆力「海部俊樹」(1)海部政権は、初めから危惧されていた
海部俊樹の“売り”は、一にも二にもその雄弁ぶりにあった。愛知県の旧制東海中学時代から県下の弁論大会に出れば優勝で、卒業後は弁護士を目指して中央大学専門部の法科に入るとともに、弁論部(「辞達学会(じたつ...
-
歴代総理の胆力「山県有朋」(1)「陸軍の父」と呼ばれ、「軍閥の生みの親」とも言われた
明治・大正期を通じ、これほど畏怖された権力者はおらず、「富国強兵」を推進した明治国家建設のトップリーダーとして君臨したのが、この山県有朋であった。生まれは長門国(ながとのくに)(山口県)、初代内閣総理...
-
歴代総理の胆力「山本権兵衛」(2)妻は品川遊郭出身の元遊女
その後、山本は予備役に編入され、政治活動から離れていたが、約10年後、時の総理大臣の加藤友三郎が死去、お鉢が回ってきての第二次内閣の組織ということだった。しかし、ここでも山本はその力量の高さに比べ、「...
-
歴代総理の胆力「山本権兵衛」(1)一目置かれる高潔な人物
それまで陸軍の従属的立場だった海軍を、リーダーシップを発揮、数々の改革を行って地位向上を実現した「帝国海軍の父」がこの山本権兵衛だった。その意味では、帝国陸軍生みの親として抜群のリーダーシップを発揮し...
-
歴代総理の胆力「西園寺公望」(2)最期の言葉は「ヒゲをそってくれ」
一方、生い立ちを振り返ると、西園寺の“お公卿(くげ)さん”としての家柄は抜群であった。京都生まれの西園寺は徳大寺家で出生、西園寺家の養子になり幼名を美丸(みまる)から公望と改名した。徳大寺、西園寺の両...
-
【参院選】元格闘家・須藤元気氏の勝因は「全国行脚」「角栄本」
リングから議事堂へ。21日の参院選で立民から比例代表で出馬した元格闘家・須藤元気氏(41)が初当選を決めた。個人票約7万3000票を獲得し、8位で当選を果たした須藤氏が事務所に現れたのは、当確の一報か...
-
歴代総理の胆力「竹下登」(1)角栄はなぜ総裁候補に竹下を挙げなかったのか?
「苦節10年」という俚諺(りげん)があるが、この竹下登は天下を取るのに、じつに23年の歳月をかけたのだった。のちに触れる竹下の極め付きの“辛抱強さ”が、改めて知れるのである。竹下の「政治の師」は、国政...
-
歴代総理の胆力「大隈重信」(1)まったくの“ダメ総理”を露呈
「無邪気の国民は、政治上の思想に乏しい。指導者がこれを教育して立憲的国民をつくっていかなければ、真の立憲政治は行われない」という立憲政治に対する言葉は、大隈重信が第一次内閣から退陣して9年後の、明治4...
-
歴代総理の胆力「細川護熙」(2)「連立」時代への出発政権
そうしたいささか緊張感に欠けた細川政権ではあったが、細川自身の言葉は常になめらかであった。日本新党結党の際には、「回転ドアはいつでも回している。志ある者は誰でも、いつでも入ってきて欲しい」などと、二世...
-
歴代総理の胆力「宮澤喜一」(1)福田赳夫と双璧の秀才
東大法学部卒の“巣窟”にして、並み居る省庁の中でも「エリート中のエリート官庁」とされているのが財務省(旧・大蔵省)だが、「省史」を紐解いてみると、その中でも、さらに飛び抜けての秀才が、二人浮上してくる...
-
歴代総理の胆力「寺内正毅」(1)「ビリケン宰相」と呼ばれた理由
前任総理の山本権兵衛が「帝国海軍の父」だったのに対し、こちら寺内正毅は元老・山県有朋が基礎を作った帝国陸軍を確立した人物であった。しかし、陸軍元帥までのぼりつめ、陸軍大臣を三つの内閣で経るなど軍人とし...
-
歴代総理の胆力「田中角栄」(2)「短命政権」と「闇将軍」
政権を執った田中角栄は、早々と「決断と実行」ぶりを実践して見せた。「日本列島改造計画」「日中国交正常化」実現へ向けての“二刀流”である。田中政権2年余、「改造計画」は立ち上がったが、折から中東戦争によ...
-
歴代総理の胆力「佐藤栄作」(4)孤独な総理のトランプ占い
佐藤退陣後、熾烈な総裁選を経、田中角栄が福田赳夫を破って後継の政権となった。総理の重責から解放された佐藤は、妻・寛子のさしがね、服飾デザイナーの森英恵のアドバイスもあって、当時、流行の長髪にイメージ・...
-
歴代総理の胆力「田中角栄」(3)“情と利”の人心収攬術
田中角栄は金脈・女性問題の不明瞭さが原因で、わずか2年の「短命」で政権の座を追われ、退陣後1年半後にまたぞろというべきかロッキード事件に連座したカドで逮捕。起訴された。そのロッキード事件の長い裁判の過...
-
歴代総理の胆力「田中角栄」(4)清張いわく「50年に一度の天才」
そうした中で、一方で田中は「人材育成の名手」でもあった。かつて、田中が師として仰いだ吉田茂元総理が、「吉田学校」の中から、保守本流としての池田勇人、佐藤栄作、そして田中自身をも総理として輩出させたよう...
-
歴代総理の胆力「池田勇人」(4)聖火が消えるのを待って去る
酒豪、ヘビー・スモーカーだった池田に喉の異変があり、これがやがて癌と診断され、政権の激務に耐えられないところに至ったからだった。酒もタバコも旧制高校時代からで、例えば酒は総理になった頃が“ピーク”だっ...
-
歴代総理の胆力「池田勇人」(1)「経済のことは、この池田にお任せ下さい」
前任の岸信介が、物情騒然の中で日米新安全保障条約を成立させたのと引き替えに退陣したあと、池田勇人は自民党総裁選を制して総理大臣のイスに座った。昭和35(1960)年7月である。池田は内閣のスタートにあ...
-
歴代総理の胆力「伊藤博文」(3)リーダーシップの決め手は「妥協の達人」であること
あらゆる組織のスタート、「創業」には規範、ルールの確立が不可欠である。その意味で、伊藤博文は折から澎湃(ほうはい)として湧き上がってきた自由民権運動に機敏に反応。それまでの明治政府、その組織を太政官制...