最高裁の沖野眞已判事が、全国弁連(反統一教会運動をする弁護士グループ)系のセミナーの講演で、「統一教会の教義を伝えること自体が違法」と発言しながら、その事実を隠したまま、教団の解散命令を担当していたことが明らかになった件で、前回の寄稿の後、いくつかの動きがあった。結果的に、教団側からの裁判官忌避申立は、たった一日の“審理”、たったの一文で却下されてしまったが、この間の経緯で、最高裁を頂点とする司法の現実に注目が集まったことには大きな意味があると思う。
五月二十七日(火)の午後に、信者と担当弁護士による記者会見が開かれた。会見では、日弁連のサイトで簡単に見つかる沖野判事(当時、東大教授)の講演及びその後の討論での発言のどこが問題で、どうしてそれが裁判官忌避の理由になるか説明された。
このセミナーで沖野氏は、統一教会の教義を伝えると、本人の意思の自由が奪われ、信教の自由の侵害や全人格の否定に繋がるとして、教団の存在自体の違法性を示唆しただけでなく、マルチ商法のように被害者が加害者に転じるとも述べている。また、信者になって献金するようになると、「人身の自由の拘束」があると、まるで統一教会がオウム真理教のように、信者をどこかに強制的に監禁しているように言っている――このような事実は確認されておらず、刑事事件などになったことはない。
教団側が問題にしているのは、沖野氏が統一教会に対して敵対的な考え方をしていることそれ自体ではない。裁判官にいろんな考え方をしている人がいることはしかたない。裁判官も人間である以上、価値観を持つなというわけにはいかない。全国弁連と付き合うな、というわけにもいかない。
問題は、教団の存在を全否定する発言、つまり特別抗告の審理に直接影響する発言を――東京地裁の解散命令決定さえまだ出されていない時点――公の記録に残るような形でしておきながら、そのことについて自己申告することなく、解散命令を担当したことである。これでは、審理を始める以前から、教団の解散を確定させよう、と既に決めていて、そのために最高裁での解散命令を担当したのではないかと疑われても仕方ないではないか? もし沖野氏が属する第三小法廷の係属(担当)になったのが偶然だとしても、自分の過去の発言を明らかにし、辞退を申し出るなど、自ら何らかの措置を講ずるべきではないか?
法哲学では、ある判断が正義に適っているかを試す思考実験として、「立場の入れ替え可能性 reversibility」と呼ばれるものがある。今回沖野氏は、実質的に全国弁連主催のセミナーで教団の存在自体が違法であるような講演をしたにもかかわらず、全国弁連の紀藤正樹弁護士や鈴木エイト氏――エイト氏の場合、ちゃんと講演内容を把握していたか怪しい――等は全然問題ないと主張したわけだが、少し立場を置き換えてみよう。
解散命令を担当する最高裁判事の一人が、判事就任前に、統一教会系の団体のセミナーで講演していたとしよう。全国弁連やエイト氏、旧立憲民主、共産、れいわ、マスコミのほとんどが、その講演内容が親教団的であったかどうかにかかわらず、大騒ぎし、裁判官忌避どころか、弾劾裁判相当だという世論を喚起し、その手続を取るだろう。その裁判官を任命した自民党政権、問題を放置した高市内閣の責任を追及するだろう。それほど重みのあることだとしたら、自分の味方、自分に都合のいい人だったら、問題ないと即断するのは、正義に適ったことだろうか?
また、自分が裁判で裁かれる側の立場、例えば、社会的に様々な非難を受けている企業、学校、政治団体等のメンバーで、裁判の結果次第ではその団体が解体し、自分自身路頭に迷う可能性が高いとしよう。その担当判事が、かつてその団体を反社扱いする市民運動グループで講演し、そのグループ以上に過激な発言をしていたことが判明したとしよう。それで公正な裁判が行われると思えるだろうか? 判決を冷静に受け入れられるだろうか?
長年法学部の教授であった沖野氏は、裁判官は最初から結論を決めているかのように、当事者に不信感を持たれることをやってはいけない、審理を透明化しないといけないことを誰よりも分かっているはずだ。それが分かっていながら、自らに関する重大な事実をどうして自己申告しなかったのか。やましいので言えなかったか、教団や信者の存在を軽く見て、そんな面倒なことをしなくてもさっさと処理すればいい、としか思っていなかったのか、どちらかだ。
記者会見に臨んだ三人の信者は、高裁の解散命令後、自分たちの親の献金で建てられ、慣れ親しんだ教団施設を取り上げられ、解雇された職員の信者は、再就職しようにも、履歴書で信者と分かると、不採用になることが多く、幼い子供を抱えて路頭に迷っている人もいるなど現状を報告しながら、以下のように訴えた。
地裁、高裁の決定の理由に納得のいかない私たちにとって、最高裁での特別抗告が最後の希望だった。たとえ解散が確定したとしても、専門家によって十分に審理が尽くされ、公平になされた決定なら、敢えて受け入れようと覚悟していた。そういう思いで、解散決定後の辛い日々を耐えていたのに、沖野判事がこんな重要な事実を隠して審理に当たろうとしていると知らされて、裏切られたように感じた。
同席した弁護士は、このことについて三審制の観点から補足説明した。三審制は、一度審理されて結論が出た事案を、より経験豊富な、より多くの裁判官が再度審理することで、見逃した点、誤って判断した点はないか、再度吟味することに意味がある。最終審である最高裁の担当判事は、最も公平性だと信用してもらえる存在でなければならない。裁判官が公平に見える存在だからこそ、辛くても判決の結果を受け入れる用意ができる。当事者の存在を全否定する講演をし、そのことを隠して事件を担当するという行為は、裁判所に対する信用を失わせ、裁判の結果を受け入れがたいものにする。
一応の客観性を整えるためか、忌避申立は沖野氏の属する第三小法廷ではなく、第一小法廷で審理されることになったが、たった一日で却下決定。その決定の“理由”は、「本件申立てに係る事情は、裁判の公正を妨げるものということはできない」。本当にこの一文だけである。説明していない。一応同僚の沖野氏を庇ったものの、どうして問題ないと言えるのか説明の労さえ取ろうとしなかったのである。これによって“守られた”沖野氏はどんな心境だろう。
裁判官忌避問題で先行事例としてたびたび参照される1973年の最高裁の決定(最高裁判所第一小法廷昭和四八年(し)第六六号)では、以下のように述べられている。
「裁判官の忌避の制度は、裁判官がその担当する事件の当事者と特別な関係にあるとか、訴訟手続外においてすでに事件につき一定の判断を形成しているとかの、当該事件の手続外の要因により、当該裁判官によつては、その事件について公平で客観性のある審判を期待することができない場合に、当該裁判官をその事件の審判から排除し、裁判の公正および信頼を確保することを目的とするものであつて…」
沖野判事はこれに該当しないのだろうか。私にはどんぴしゃりにしか見えない。
教団の信者や私たち解散命令に疑問を呈す外部有識者は、ワンセンテンスによる人をバカにした、申立却下を乗り越えて、沖野判事の担当者としての適正を問い、最終審での公正を求めて闘い続けるつもりでいる。
忌避申立が却下されたことで、「統一教会=悪」と確定したとはしゃいでいる連中が、信者や解散命令反対派に嫌がらせを始めている。以前から私に嫌がらせしていた「ハーロックⅡ」や「みやび」といった人物は、私が勤務する金沢大学のXアカウントに執拗にメンションして、金沢大学は仲正を処分しないんですか、学生が可哀そうです、などと私を攻撃した挙げ句、みんなでこいつの大学に電話し、学内で仲正問題を取り上げてもらおう、と呼びかけるに至った。脅迫・業務妨害だ。無論、こんな卑劣な連中に負けるわけにはいかない。
文:仲正昌樹
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