「豊臣兄弟!」(NHK)で信長(小栗旬)がいよいよ安土城に拠点を移す。古城探訪家の今泉慎一さんは「琵琶湖畔に残る安土城跡を訪れたところ、頂上の天主(天守閣)近くには信長が愛した小姓たちの屋敷があった」という――。

■天主の一番近くにいた武将は?
第13回:安土城(滋賀県近江八幡市)
1576(天正4)年1月17日、丹羽長秀を総普請奉行とし、ついに安土城(図表1:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)が築城される。築城開始年から数えると、今年はちょうど450年。現地では、11月14・15日の「あづち信長まつり」ほか、記念行事も開催予定。「豊臣兄弟!」(NHK)の各場面でもお馴染みとなった、信長の相撲好きにあやかって、7月28日には力士を招いたイベントも行われる。
一般的には安土城といえば、築城から3年後に完成した日本初の天主(通常は「天守」だが、安土城では「主」の文字を用いる)だろう。瓦や室内に金箔をふんだんに用いた豪華絢爛な天下人の城は、残念ながら本能寺の変直後の混乱の最中で焼失してしまう。
天下人・信長の威光を象徴する安土城には、当然ながら家臣たちも集結していた。現地案内板には、彼らの屋敷跡が「○○邸」と記されている。
■重臣でもないのに天主近くに?
大手道の両側には秀吉、利家の名前が見られる。麓から向かって右手が伝・前田利家邸、左手が伝・羽柴秀吉邸だ。信長の甥で、明智光秀の娘を娶った織田信澄(津田信澄)や、信長の右筆(ゆうひつ)(主君に代わり文書作成などを担当する文官)だった武井夕庵(せきあん)の名も見られる。
ところで、縄張図をもう一度よく見てほしい。
武将名が記されている屋敷の中で、最も天主に近くに居を構えているのが、長谷川(はせがわ)秀一(ひでかず)、そして万見仙千代(まんみせんちよ)(重元(しげもと)とも)だ。よほど戦国時代に詳しい人でも正直なところ「誰それ?」という存在だろう。少なくとも秀吉や利家に比べると、はるかにマイナーで、信長麾下(きか)で残した実績についても雲泥の差がある。いったいなぜ、この二人が「最も主君のそば」にいたのか。
なお“伝”とあるのは、同時代の一次資料や発掘などで立証されていないため。従ってどの邸も後世に推定されたものに過ぎない。ゆえに、以下の話はあくまで「もし仮に“伝”が正しければ……」という前提でお読みいだたきたい。
■安土城は“戦う城”でもあった
その答えを明らかにする前に、安土城の構造について見ておきたい。一般には「見せる城」として語られることの多い安土城だが、実は案外「戦う城」としての特徴を随所に備えている。このことは、安土城がメディアで紹介される際、先に挙げた大手道の写真が最も使われることが影響している気がする。
まず、安土城の比高は105m。これは立派な山城といっていい。
さらに真っ直ぐなのは最初の大手道のみ。そこから先は幾度もカーブしながら斜度を増し、また頭上はるかから狙い撃ちできる構造で、城内の通路は進んでいる。
その先が信長の嫡男・織田信忠邸だ。前出の縄張図には記載がないが、伝・武井夕庵邸の上あたり。ちょうど先ほどの急坂のカーブの先。攻め手のルートは狭く絞り、その奥には充分な塀を駐屯できる。まさに城の守りの理想といえる。
■黒金門と高石垣で守りを固めた
信忠邸の先は、約50mほどの尾根道。その先には石垣がそびえているのが見える。L字の石垣を組み合わせ、導線を屈曲させた食い違い虎口の黒金門だ。さらに黒金門を突破すると、真正面には、伝・二の丸の壁のような高石垣が現れる。
その先も、幅は広がるが幾度も直角に折れたり、門が設けられていたり。
おそらくこの黒金門から伝・二の丸あたりまでが、安土城の守りの要であることは間違いない。実戦視点で見て、相当固いと言わざるを得ない。
■信長の“お気に入り”の男
さて、長谷川秀一の謎を解くため、手がかりを徐々にたどってゆきたい。まずは、黒金門の手前に立つ二本の石柱だ。そこには「織田信澄邸跡」「森乱丸(蘭丸)邸跡」の文字が刻まれている。
ただし、それらしき広い平坦地はなく、急斜面ばかり。どう考えても屋敷跡には見えない。その疑問は縄張図の伝・黒金門付近を覗き込んでみると氷解する。
伝・黒金門の手前から山腹を北へ向かう細道が描かれていて、その先に「伝・森蘭丸邸」「伝・織田信澄邸」がある。つまり、両邸へのアクセスルートの入口だったのだ。ただしこの道、現在はヤブに阻まれ進めそうにない。蘭丸邸への道を開通させることを目的に、「ヤブ切り開き」の“合戦”を呼び掛ければ、全国から森蘭丸ファンが馳せ参じそうだが……。

それはさておき、森蘭丸といえば信長の小姓(こしょう)としてもっとも有名な人物だ。なるほど、つまり信長は寵愛する蘭丸を「苦しゅうない、近う寄れ」と、天主から近い場所に置いたのではないか。
となると、邸が蘭丸より天主に近い長谷川秀一、万見仙千代はもしや……。
■蘭丸より信長の側にいた2人
その「もしや」の通りだった。秀一、仙千代もまた、小姓として信長の寵愛を受けた人物だった。
尾張国出身で、父も織田氏家臣だった秀一は、小姓として側に仕え、信長の男色相手として寵愛を受けたという(『武家事紀』)。もっとも、単にかわいがられていただけではなく、荒木村重の謀反に端を発する有岡城攻めなど、戦場にもいた。本能寺の変の際は家康の伊賀越に道案内として同行。以後は秀吉に従い、小牧・長久手の戦い、紀州征伐、小田原征伐にも参陣している。さらには1592(文禄元)年の文禄の役では朝鮮半島にも渡っている。
もうひとりの仙千代は出自不明。彼も戦地に足を運んでおり、有岡城攻めでは秀一とともに前線へ。
鉄砲隊を率いて城近くまで攻め入るも討死にした。
この討死によって仙千代から秀一へと譲られたのが、安土城内の邸宅だった。同じ場所に二人の武将名が記されているのは、そういうわけなのだ。
■安土城を訪れても見逃しがち
伝・長谷川秀一邸(伝・万見仙千代邸)は、黒金門を抜けて左に折れた位置にあるが、ほとんどの安土城の訪問者はスルーしてしまう。伝・二ノ丸を経て天主へのルートは逆の右で、こちらの方は圧倒的に幅が広いからだ。
■信長の次男・信雄の供養塔もある
数段の石段の先には、こじんまりだが屋敷跡とはっきりわかる平坦地。直線的に並ぶ列石や礎石らしき平べったい巨石は遺構だろう。屋敷跡には信長の次男・織田信雄と、彼の子孫を含む四代の供養塔がある。江戸以降に建立されたもので、経緯は定かではない。
邸跡の東側のすぐ上が伝・二ノ丸、続いて天主だ。もしや、通常の天主へのルートとは別に、殿とこっそり密会するための隠れルートがあったのでは? と邪推してしまったが、それらしき跡は残念ながら見当たらず。黒金門の奥と一続きの高石垣がそこにはそびえていた。

秀一邸は尾根先にあり、その下には縄張図上では、伝・森蘭丸邸がある。目を凝らして道を探してみたが、黒金門手前から入る道同様、ヤブに閉ざされていた。
■13歳で取り立てられた美少年
天主近くに実はもう一人、小姓として知られる人物がいる。その邸は秀一よりはやや遠いが、蘭丸のそれよりは天主に近い。縄張図の天主南東にそれはある。
堀久太郎。またの名を堀秀政。一説によると大変な美少年で、13歳で信長の小姓として取り立てられたという。こちらも合戦での活躍も目覚ましく、本能寺の変以降は秀吉に帰属。山崎の戦い、小田原征伐、九州征伐などで結果を残す。のちに嫡男・秀治が越後春日山30万石もの領地を得られたのは、その大部分が父・秀政への高評価にあったはずだ。
伝・森蘭丸邸と同じく、残念ながら伝・堀久太郎邸へはアクセス不可。安土城の東半分は立ち入り禁止エリアになっているのだが、その一部にあたる。
安土城内で秀吉ら家老を差し置いて、実の息子・信雄に並び、いや、それよりも近く、自分の居所である天主付近に年若い小姓を住まわせていたというのだから、戦国の世ではタブーではなかったとはいえ、安土城は信長の男色のためのハーレム(後宮)としても機能していたのかもしれない。
しかし、小姓は単に見目麗(みめうるわ)しいことだけが条件ではない。武将としての勇猛果敢さも同時に求められることは、信長が側においた4人の実績を見ればよくわかる。なかでも堀秀政と長谷川秀一の2人は、秀吉時代まで含め、実績とエピソードは申し分ない。いずれも現時点では未発表だが、「豊臣兄弟!」でも登場に期待したい。

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今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)

古城探訪家

1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。

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(古城探訪家 今泉 慎一)
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