劉少奇に代わって毛沢東の後継者となった林彪は、死後、毛沢東らによって「野心家、陰謀家」として断罪された。だが、林彪は本当に「野心家」、「陰謀家」だったのだろうか。そもそも毛沢東が林彪を後継者に選ばなければ、そのように非難されることもなかっただろう。
中国共産党公認の毛沢東の伝記である『毛沢東伝』(中共中央文献研究室編、中国・中央文献出版社、2003年、下巻1429頁)は、毛沢東が林彪を後継者に選んだ理由をふたつあげている。ひとつは、林彪が毛沢東よりも14歳、劉少奇や周恩来よりも9歳若かったということ、もうひとつは、国防相就任以来の林彪が「政治を突出させる」など、毛沢東と考え方が一致していたこと、である。そして、後者の理由が「より重要」と指摘している。
しかし林彪は病気を理由に後継者になることを辞退する。毛沢東はそれを許さない。毛沢東は林彪に向かって、「明の世宗になりたいのか」と迫る。明の世宗とは道教にこって政治をかえりみなかった嘉靖帝のことである。林彪は毛沢東にそこまで言われて辞退し続けるわけにはいかなくなった。毛沢東の後継者となることを受け入れたのである。
この毛沢東と林彪のやりとりは、林彪の長男、林立果の婚約者だった張寧の自伝『塵劫』(香港・明報出版社、1997年、328~329頁)にもとづいている。張寧は「林彪の周囲の者」からそうしたやりとりがあったことを聞いたという。彼女は林立果とともにモンゴル草原で墜落する要人専用機に乗るはずだったが、林立果の姉、林立衡に睡眠薬を飲まされて先に眠ってしまったおかげで、命をながらえたのだった。
林彪は1966年8月の中国共産党中央委員会総会で毛沢東の後継者に選ばれる。当時、林彪は、自分の水準や能力を知っているがゆえに後継者となることを再三辞退したが、毛沢東と党が決めた以上、それに従わざるをえないとしつつも、「よりふさわしい同志がいるならば、いつでも交代する用意がある」と語っている(高文謙『晩年周恩来』米国・明鏡出版社、2003年、261頁)。
毛沢東の後継者となること、それは決して手放しで喜べることではない。毛沢東によって後継者の地位にひきあげられ、毛沢東によってその地位から転落させられた劉少奇の運命が、カリスマ的指導者の後継者となることの難しさを端的に物語っている。林彪はそのことを十二分に知っていた。だからこその辞退であり、それは決して形のうえだけの辞退ではなかった。
ちょうど20年前、1989年の天安門事件で趙紫陽が失脚し、江沢民がトウ小平の後継者に指名されたとき、江沢民の妻や周囲の者たちが懸念したのも、江沢民が胡耀邦や趙紫陽と同じ運命をたどるのではないかということだった。胡耀邦も趙紫陽も劉少奇同様に後継者からの転落という道を歩んだのである。
後継者となった林彪は毛沢東に対していかにふるまったのか。
だが、林彪には林彪の考えや利害関係があり、何事も毛沢東と完全に同じというわけにはいかなかった。毛沢東が林彪の協力を得て劉少奇らの政敵を失脚させると、劉少奇とその支持者たちが保持していた地位と権力の一部を、林彪と彼につながる軍指導者たちが手に入れることになった。そして、文化大革命が進むにつれ、林彪と毛沢東との間に亀裂が生じ、それは次第に深くて広い溝となっていく(文中、敬称略)。(執筆者:荒井利明 滋賀県立大学教授)
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