今季限りでの引退を表明した錦織圭(ユニクロ)は、盛田正明テニス・ファンド(MMTF)の4期生として支援を受け、13歳で米IMGアカデミーに留学。アジア男子最高の世界ランキング4位にまで上り詰めた。

盛田氏は、「ソニー」の創始者のひとり、盛田昭夫氏の実弟で、私財を投じて2000年にMMTFを創設。ソニー副社長、日本テニス協会会長を歴任し、錦織を支援し続けた大恩人だ。その盛田氏が、スポーツ報知の単独インタビューに応じ、錦織引退の胸の内を語った。(取材・構成=吉松 忠弘)

 MMTFの事務所には、盛田氏と錦織が写った写真が、あらゆるところに飾られていた。29日に99歳になる。それでも、記者に「まだまだこれからですよ」と話すバイタリティーは、2000年から11年間、日本テニス協会の会長をつとめていたときと変わらない。今でも、第2の錦織圭を育てようと、海外の厳しい環境に、10代のジュニアたちを派遣し続ける。

 「中南米などに行ったら、コートはデコボコ、セルフジャッジはめちゃくちゃ。それでも勝たなくてはならない。そういう、ものすごい荒波にさらされながら勝っていく環境に、選手を放り込む。それが、選手を強くしていく。錦織は、最初、それほど目立った子じゃなかった。

でも、その環境に黙って耐えた」

 盛田氏が驚いたことがある。4大大会のジュニアに視察に行き、ロッカーで試合前の錦織と会った。しかし、錦織は見向きもせず、試合中も、目も合わさない。

 「私が行ったのに、横を通っても、全く知らんぷり。冗談だけど、ひどいやつです(笑)。テニスのうまさなら、錦織と同じぐらいの子はいる。でも、試合前のあの集中力は、本当にすごい。これが大事だと思ったら、ほかのことは全く気にしない。それが彼を世界トップ10にした原動力だと思っている。でも、試合が終わると、真っ先に、笑顔で私の元に走ってくる。これはうれしいですね」

 基金は毎年、派遣した選手に、世界ランキングや成績などの課題を課す。それをクリアしなければ、奨学金は打ち切られる。

早い内に、別の道に進めた方がいいという盛田氏の厳しい親心だ。錦織は、その課題を全てクリアし、プロに転向した最初の「卒業生」だった。

 「大変だから、世界に出す。大変になってほしいわけです。それに耐えなきゃ、世界では勝てない。わざと大変にしている。留学先の宿舎でも、絶対に日本人同士を一緒の部屋にしない。錦織も、ものを盗まれたり、いじめられたりしながら、卒業していったんです」

 米ニューヨーク時間の2014年9月8日。全米オープン男子シングルス決勝。錦織が、アジア男子として史上初めてシングルスで4大大会決勝の舞台に立った。しかし、毎年のように4大大会を視察に訪れていた盛田氏は、皮肉にも、このときだけ会場に姿が見えなかった。前年の同時期に近親者の不幸があり、喪に服していた。

 世界11位の錦織は、対戦成績5勝2敗とリードしていた世界16位のマリン・チリッチ(クロアチア)にストレートで敗れた。試合後の会見で、錦織は不在だった盛田氏について、次のように語った。

「一番見せたい人だった。だから、次の4大大会で優勝するのを(初めて)見せるために、今日は負けました」

 「その言葉を新聞で読んだとき、はっとした。少しでも、私が見ているということが、いささか力になってくれていたんだと感じてうれしかった。ずっと心の中に、私のことがあったんだと」

 盛田氏が育て、世界に送り込んだ日本最高のスーパースターが、ついにラケットを置く時が来た。

 「自分のことは自分にしか分からない。本人が辞めた方がいいと思ったものを、(他人が)無理にやれということは言わない方がいい。もう一家のあるじ。自分の道は自分でしか決められない。あれだけ、日本や世界のためにプレーしたのだから、あとは人生を楽しめばいいと思う」

 ◆盛田 正明(もりた・まさあき)1927年5月29日生まれ。98歳。

東工大(現東京科学大)卒。ソニー副社長、ソニー生命保険会長などを歴任し、2000年に日本テニス協会会長に就任。2011年まで務めた。

 ◆盛田正明テニス・ファンド 私財を投じ2000年に創設。9月から翌年の5月までを期間として、米IMGアカデミーに選手を送り出す。奨学金は年に1回の日米往復航空券、滞在費、学費などを含み、専属コーチなどをつければ、一期間で約1000万円を超える。返済の義務はないが、世界100位以内になると、賞金の10%を5年間、基金に還元する。

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