【不定期連載】箱根からロス五輪へ~MGCに挑むランナーの肖像~

第1回 近藤亮太(三菱重工)前編

【マラソン】「陸上は高校まででやめるつもりだった」近藤亮太が...の画像はこちら >>

 箱根駅伝を走ったという事実は同じでも、その物語は一人ひとりまったく違う。区間賞を重ねたスターもいれば、たった一度の出走で思うような成績を残せなかった選手もいる。

本連載では、2028年ロサンゼルス五輪代表の座を争うMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)出場権獲得ランナーたちに、箱根を走った学生時代の記憶、そして、世界を見据えて42.195kmに挑む現在地を聞く。

 第1回は、近藤亮太選手(三菱重工・26歳)。昨年2月に初マラソン日本最高記録(2時間05分39秒)を出し、同年9月に東京で開催された世界陸上に出場。そして今年3月の東京マラソンでMGC出場権獲得と勢いに乗るホープだ。インタビューの前編では、箱根駅伝に一度しか出場できなかった順天堂大時代を振り返ってもらった。

【「"じゃないほう"の近藤」と呼ばれていた】

 陸上は高校まででやめるつもりだった。

 近藤亮太が通っていた島原高校は長崎県でも指折りの進学校である。陸上競技部に在籍していたが、長距離の部員は少なく、都大路(全国高校駅伝)予選にはサッカー部などからの"助っ人"がいなければ出場できなかった。近藤は、個人で輝けるようにと努力していたものの、卒業後は箱根駅伝を目指すのではなく、国立の大学に進み、建築を学ぼうと考えていた。

 だが、高2の冬、陸上を続けることに舵を切った。

 都道府県対抗駅伝に出場する長崎県の選考合宿に招集され、非公式ながら5000mで自己ベストを出した。その結果、近藤はメンバーに選ばれたが、レース1週間前にインフルエンザにかかり、出場を断念した。

「悔しかったですね。

都大路に出られず、都道府県こそはと思っていたので、もう未練たっぷりでした。でも、この選考会での結果を(順大監督の)長門(俊介)さんが聞いたらしく、高3の金栗記念(選抜陸上)の時に来てくださったんです。長門さんは長崎県出身で、当時30代前半の若い監督だったので面白そうだなと思いました。

 また、陸上を続けるなら、スポーツをしっかり学べる大学がいいなと思っていたので、(スポーツ健康科学部のある)順大は理想的でした。すごいタイムを持っていたわけでもないので、声をかけていただいてありがたかったです」

 近藤は、中学から高校の1年ぐらいまで「"じゃないほう"の近藤」というあだ名で呼ばれていた。県内には3000mを8分台で走り、全中(全国中学校大会)にも出たイケメンの同姓の選手がいた。

「その近藤君と比べられて、『あの近藤君は速いのになぁ』とよく言われました(苦笑)。高校2年ぐらいまでは飛び抜けた成績を残せていなかったので、そう言われても仕方ない感じでした」

 ただ、近藤にはコツコツと努力を積み重ねられる意志の強さと忍耐力があった。そうして競技力を高め、大学4年時に箱根駅伝を駆けるところまでたどり着くのだが、中学、高校時代の彼にとって、箱根は遠い存在だった。

「初めて箱根駅伝を観たのは(東洋大の)柏原(竜二)さんが走られた時です。『電車よりも速く山を登る人がいる』って聞いて(笑)、そんな人がいるのかって思って観ていました。家族でテレビ中継を観るのが箱根。

まさか自分が走れるようになるとは思っていなかったです」

【部内選考レースでの失敗】

 順大に入ると、4年生の塩尻和也(現・富士通)の強さと注目度の高さに刺激を受けながら練習に食らいつき、1年目から箱根駅伝の登録メンバー16名入りの期待もかかったが、かなわなかった。

 翌年から近藤を取り巻く環境はいっそう厳しくなった。2年時には西澤侑真(現・トヨタ紡織)、伊豫田達弥(現・富士通)、四釜峻佑(現・ロジスティード)、野村優作(現・トヨタ自動車)、平駿介(現・クラフティア)らが、3年時には三浦龍司(現・SUBARU)が入学してきた。

「すごいメンバーが集まり、危機感と焦りしかなかったです」

 そう思ったのは、強い下級生たちの存在だけではなかった。1年の終わり、近藤は大腿骨を疲労骨折し、復活したのが2年の8月だった。走れない、苦しい時期を過ごしていたのだ。

 だが、その夏から土台づくりを始め、競技力を高めていった。3年時には箱根駅伝の予選会に出場して、1時間02分35秒でチーム内8位、総合32位でトップ通過に貢献した。

「ようやく箱根が近づいてきた。やれるぞという手応えを感じました」

 それでも、まだ絶対的な存在でなかった近藤は、年末の部内選考レースに出走した。エース級の選手以外は、登録メンバー発表の10日前に10kmの選考レースを走り、そこで結果を出す必要があるのだ。

「この時は経験不足がもろに出ました。高校時代は部員が足りないくらいなので、部内選考レースというものを経験したことがなかったんです。

自分の性格的にも、人を蹴落としてでも、とはならず、レース中に譲ってしまったり......。

 また、箱根を走りたいなら、(メンバー選考で不利にならないように)多少の疲労や痛みがあっても隠すと思うんですけど、僕はバカ正直にすべてスタッフに伝えていました。

 しかもこの時、僕は箱根本番にピークを合わせようとしていたので、まだ100%の状態ではなかったんです。でも、他の選手はここにピークを持ってきて勝負した。箱根への気持ちの強さが違いましたし、逆に自分の詰めの甘さ、弱さが出てしまった。この時は、かなりショックでした」

 レース後、肩を落とす近藤は、長門監督から「次は最後の1年、チームを勝たせるように頑張るぞ」と声をかけられた。だが、予選会からこの日まで順調にきていただけに、なかなか現実を受け止めることができなかった。

【今のマラソンへの取り組みにも役立っている】

 4年時は春先から調子が良かった。5月の日体大記録会の10000mで、初めて28分台(28分54秒47)を出した。当時、順大で28分台の記録を持つ選手は多くなく、近藤は「チームの主力になる」という気持ちを強くした。

 夏には実業団の三菱重工の合宿に参加。実業団の選手が何を意識して、どんな練習をしているのかを見聞きし、吸収できるものは、すべて吸収しようと努めた。

そして、11月の全日本大学駅伝で学生三大駅伝デビューを果たした。

「7区をまかされ、2位で襷を受けたんですが、前の東京国際大と20秒差ぐらいだったので、(一気に詰めようとして最初の1kmを)2分40秒で突っ込んだんです。そうしたら途中から苦しくて、ひたすら耐えるレースになってしまって......。駅伝は、高校時代に1区しか走ったことがなかったので、"駅伝での走り方"を理解していなかったんです。しかも、順位を5位に落としてしまい、喜びとか手応えはまったくなかったです」

 区間9位で悔しさを噛み締めたが、箱根の前に駅伝を経験できたことは大きかった。そして、いよいよ最初で最後の箱根を迎えた。恒例の10km選考レースの内容はいまひとつだったが、メンバー入りを果たした。そして、大晦日に行なった刺激入れの2km走でも、ピーキングがうまくいっているという感触があり、長門監督にも「近藤、めちゃくちゃ動きがいいな」と言われた。そして翌日、吉報が届いた。

「最初は7区を希望していました。復路のエース区間ですし、そこで走りたいと監督にも伝えていたんです。でも、『お前は単独走が得意だし、スタミナがあって、長い距離を走る力があるので9区か10区だ』と言われて、頭の中でイメージしていました。

最終的に10区と言われたのは前日の夕方です。ようやく箱根を走れると思いました」

 第98回箱根駅伝、10区を走ることになった近藤は、2位で襷を受け、順調に走っていた。ところが、残り1kmで運営管理車の長門監督から「後ろから駒澤大が迫っている」と声が飛んだ。

「これはヤバいと焦って、そこからめちゃくちゃ逃げました」

 近藤は残っていた力を振り絞り、総合2位を守ってフィニッシュ。

「うれしかったですね。自分は区間14位で"やった感"はなかったんですけど、チームは総合2位になることができた。仲間に恵まれ、いいチームで箱根を走れたなと思いました」

 近藤にとっては、うまくいかないことの多い4年間だったが、だからこそ実になる時間だった。

「メンバー争いで力を出しきることや、駅伝の難しさなど、苦しんだ経験が多かったです。でも、それが今、自分がマラソンに取り組むうえで、長期的な視点に立ち、練習を点ではなく線で結んでいくことの重要性を教えてくれました」

 それから約3年後、2025年2月の大阪マラソン、近藤は陸上界を驚かすことになる。

(つづく)

後編を読む>>>順大で箱根出場は一度だけ。「初マラソン日本記録」保持者の近藤亮太は"雑草魂"で世界陸上の日本代表になり、ロス五輪も目指す

近藤亮太(こんどう・りょうた)/1999年生まれ、長崎県島原市出身。島原高から順天堂大に進み、箱根駅伝は4年時に10区を走って区間14位。

大学卒業後は実業団の三菱重工で力を伸ばし、2025年2月の大阪マラソンで2時間05分39秒で日本人1位、初マラソン日本最高記録を樹立。同年9月の世界陸上東京大会の代表に選出されると、日本勢トップの11位に。2026年3月の東京マラソンで17位(日本人4位、2時間07分06秒)となり、MGC(マラソングランドチャンピオンシップ/2028年ロサンゼルス五輪マラソン日本代表選考会、2027年10月に開催予定)出場権を獲得した。

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