木村和司伝説~プロ第1号の本性
連載◆第17回:水沼貴史評(7)
JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。
そこに至るまでに数多くの苦い経験もしてきた水沼にしてみれば、「1986年にワールドカップへ行っていたら、1988年にソウルオリンピックへ行っていたら、そのサイクルがもっと早く来ていたかもしれない」という思いもある。
しかし、「それはできなかったけど、ずっとチャレンジし続けたことで、サッカーっていうものの認知度が上がって、ここまで来た」と実感できたのが、1993年のJリーグ誕生だった。
記念すべき開幕戦を迎えた1993年5月15日、水沼はウォーミングアップを終えてロッカールームへと引き上げるとき、その日の対戦相手であり、日本代表のチームメイトでもあったヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)の加藤久と、「いよいよ来たな」と言葉を交わし、思わず涙があふれてきたことを覚えている。
それまでにも東京・国立競技場のピッチには何度も立ってきたが、日本リーグ時代を振り返ると、ガラガラのスタンドのなかで試合をしたことは一度や二度ではなかった。
だが、この日の国立は、試合開始前からスタンドが満員の観衆で埋め尽くされ、レーザー光線を用いた華やかな演出で、これ以上ないほどの高揚感に満ちていた。
「(スタンド下からピッチへ出ていく)階段を上がっていったときの、あの雰囲気は一生忘れられない」
プロリーグ誕生に間に合ってよかった――。それが水沼の率直な気持ちだった。
しかしながら、木村は水沼の2歳上。同じ「間に合った」でも、その重みはおそらく異なっていただろう。
「僕ももう33歳だったけど、和司さんは35歳ですからね。
水沼の「本当にギリギリだった」という言葉を裏づけるように、木村は翌1994年のシーズンを最後に、現役引退を決めている。
1993年には21を数えたJリーグ出場試合数も、1994年には10まで減っていた。
「今と違って、当時はケガをしてもしっかり検査を受けていたわけじゃない。僕は結構肉離れが多かったけど、自分の感覚だけで、できる、できないを判断していた。だから、(現役の)最後のほうは常にテープを巻いているか、サポーターをしているか。いい状態でやったことがなかった。和司さんも最後、手術はしなかったけど、大きなケガをしているんですよね。その頃くらいから、たぶんつらかったんでしょうね、きっと」
結果的に木村の現役最後の試合となったのは、天皇杯準決勝のセレッソ大阪戦。神戸ユニバー記念競技場での試合に敗れたあと、水沼は新幹線で新横浜まで帰ってきたその足で、木村、そしてゼネラルマネージャーの森孝慈とともに横浜・関内で食事をしている。
「なんで行くんだろう?」
不思議に思いつつ、ふたりについていった水沼は、「普通に飲みに行くのとはちょっと違う雰囲気があった」ことを覚えている。
「おまえ、もうそろそろじゃないか?」
水沼の記憶によれば、森は食事の席で、木村にそんな言葉をかけたという。
次の日にクラブハウスで行なわれた、シーズン最後のミーティング。「ワシ、やめるわ」。木村は自ら、チーム全員の前でそう告げるのである。
「森さんに引導を渡されて、あとは自分で決めろ、みたいな感じだったんで、最後は自分で決意したんだと思いますけど、その場にいられたことが、よかったのか、悪かったのか......。まあでも、最後まで和司さんとの縁があったんだって、ちょっと思いましたね」
今となっては、「その少し前に、森さんが(GMとして)マリノスに入ってきたときに、『なんで?』とは思ったんですよ。でも、森さんが(横浜マリノスに)来た時点で、きっとそういう役目だったんだろうな」と、水沼は回想する。
功労者であればあるほど、クラブはクビを切りにくい。それが"ミスターマリノス"と呼ばれるほどの選手なら、なおさらだ。
「森さんしか言えなかったんでしょうね。やっぱり時代も変わって、サッカーも変わって、僕もそうでしたけど、そろそろ和司さんにも限界が近づいてきて、いろんな意味で世代交代していかなきゃいけない、と。『じゃあ、誰が言う?』みたいな話になったとき、たぶん森さんはその役目だったんだろうなというふうに、僕は思いました」
3人で食事に行った4日後、木村は記者会見を開き、こんな言葉で自身の決断を語った。
「引退という言葉は好きではない。"卒業"させてもらうことになった」
(文中敬称略/つづく)◆横浜F・マリノスの"木村和司政権"はなぜ、わずか2年で終わりを告げたのか>>
木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年~2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。
水沼貴史(みずぬま・たかし)
1960年5月28日生まれ。埼玉県出身。浦和市立本太中、浦和南高で全国制覇を経験。その後、法政大学を経て、1983年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。金田喜稔、木村和司らとともに数々のタイトルを獲得し、黄金時代を築く。ユース代表、日本代表でも名ウイングとして活躍した。1995年、現役を引退。引退後は解説者、指導者として奔走。2006年には横浜F・マリノスの指揮官を務めた。国際Aマッチ出場32試合7得点。

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