野球の未来を見ていた男~近藤貞雄伝
証言者 元デイリースポーツ記者・今野良彦(後編)

 近藤貞雄が率いた日本ハムは、ベテラン選手がアロハシャツで移動するほど自由だった。しかも遠征先から帰京する際、必ずしもチーム全員で行動するわけではなかったという。

当時としては異例とも言える光景を、1991年にデイリースポーツの日本ハム担当だった今野良彦は、目の当たりにするたび驚いた。そんな近藤独自の方針について、今野に聞いた。

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【近藤貞雄に受け継がれた天知俊一の教え】

「それはもう、門限なんかもないですよ。外泊して朝帰ってくる選手もいました(笑)。試合で結果を出せば細かいことは言わない、というような方針でしょうか。当時はどこのチームも規律、規律でガチガチでしたから。ご自身も管理されるのが嫌だったみたいですね。現役時代の近藤さんは、けっこう自由人でしたから」

 戦後、プロ野球が再開された1946年。近藤は巨人でチーム最多の23勝を挙げ、300回1/3を投げて防御率2.18。若きエースには女性ファンも多く、グラウンドを離れれば自由奔放な若者だった。

 同年オフの交通事故で負った右手の重傷から復帰し、48年に移籍した中日で復調すると、若者らしい遊び心も戻ってきた。そんな近藤の"夜遊び"をたしなめたのが、のちに中日の監督となる天知俊一だった。ただし、その諭し方は柔らかく、丁寧だったという。

 天知は明治大で捕手として活躍したのち、東京六大学の審判員、記者、帝京商(現・帝京大高)の監督などを経て、1949年から51年まで中日を指揮。帝京商時代には杉下茂を育て、54年に監督へ復帰すると、エース杉下を擁して中日を初の日本一に導いた。

 当時としては珍しい温厚な指導者で、理論家でもあった。選手への小言も、頭ごなしに叱りつけるのではなく、さりげなく伝えた。のちに近藤は天知について、こう語っている。

「私のような若造ピッチャーも、大人として扱ってくれた。門限や外出禁止令で縛らず、やさしく自覚をうながしてくれた」

 近藤は54年限りで現役を引退したが、天知はそのシーズン中から、登板機会が減っていた近藤にコーチ修業をさせていた。コーチ陣には重要なポイントだけを指示し、あとは各人の裁量に任せる。近藤が二軍監督を務めた時にも、自由に腕を振るわせた。

 選手を必要以上に縛らず、ひとりの大人として扱う──。監督・近藤の方針には、天知の下で過ごした経験も影響していたのかもしれない。

「実際、キャンプでの近藤さんは選手を大人扱いしていたと思います。

とにかく全体練習の時間が他球団より短かった。カープの半分ぐらいでしたが、別に『上がれ』と言ってるわけじゃない。必要なら個々に練習すればいいと。でも、当時の日本ハムはおとなしい選手ばっかりだったんで、残って打ち込むような人は少なかったですね。すぐ宿舎に帰っちゃう人もいました」

【先発には長く投げさせない】

 1991年は、近藤が日本ハムの監督に就任して3年目だった。しかし、チームは必ずしも近藤が思い描いたようには変わっていなかった。

 中日、大洋を率いた時と同様、シーズン序盤から前半戦にかけて好調でも、後半戦になると失速した。その原因として、評論家からたびたび指摘されたのがキャンプでの鍛錬不足だった。実際にチームを取材していた今野の目には、どう映っていたのか。

「やっぱり、それは感じてましたね。野手の人が毎日のように試合に出るにはしんどいだろうなと。ただ、ピッチャーはまた別です。『キャンプで3000球も投げさせるのは間違っている』と言って、投手陣がブルペンで投げ込む量を減らしていました。

当時は1日に400球投げた、500球投げた、なんていうピッチャーもいっぱいいたわけですが、その効果も疑問視していたようです」

 近藤の疑問は明快だった。400球、500球を投げ込んだとして、疲労が蓄積したなかで最後まで理想的なフォームを保てるのか──。下半身が疲れ、肩やヒジにも疲労がたまれば、故障のリスクは高まり、フォームも崩れていく。それなら40球、50球でも、正しいフォームできっちり投げ、最大限の効果を得たほうがいい。そう考えた近藤は、投手の球数を制限した。

「ピッチャーの肩は消耗品、ということですよね。『だから先発には長く投げさせない』とも言っていました。それで一度、『今は完投が少なくなりました。やっぱりピッチャーは先発完投ですよね』って僕が言ったら、『私は分業制がいいと思ってるんだ』と。『何か最近、ピッチャーは分業制だっていう指導者もいるけど、最初に考えたのは私だよ』って言われたんです」

 近藤が投手の分業に本格的に取り組んだのは、中日の投手コーチを務めていた1965年だった。キャンプから投手陣を先発組と救援組に分け、それぞれ異なる調整をさせた。

 まだ「投手=先発完投」という考え方が根強かった時代である。

球団OBが先行きを危ぶみ、多くの投手が救援組に入ることを嫌がるなか、前向きに受け入れたのが板東英二だった。近藤はのちに板東について、「分業制の実験台を買って出てくれた」と振り返っている。

【生まれるのが50年早かった】

「今から考えると、近藤さんは生まれるのが50年早かったと思うんですよ。分業制も、投げ込みさせないのも、早かったかもしれない。とくに投げ込みをさせないのは、コーチ陣や球団首脳、なにより大沢(啓二)さんの反発もありました。大沢さんは球団常務で近藤さんを招聘した人ですけど、元監督でもあって、ずっと"院政"を敷いていましたからね」

 もちろん、近藤の方針がすべての投手に合ったわけではない。球数を抑える調整法が合う投手がいる一方で、不安を感じる投手もいた。納得するまで投げ込むことでフォームを固め、投球に必要な筋力をつくってきた投手にとっては、それまでの調整法を変えることへの戸惑いもあっただろう。

 本来、そうした不安を受け止めるのは投手コーチの役割になる。だが、監督とコーチの間で考え方が十分に共有されていなければ、現場にズレが生じる。その点に、近藤体制の弱点があったのではないかと今野は見る。

「近藤さんの唯一の弱点を挙げるとすれば、スタッフがいないことでした。いないことがいいか、悪いかは一概に言えませんし、球団が用意してうまくいく場合も、もちろんあるんですね。

ただ、当時の日本ハムはOBを大事にしてこなかったし、投手コーチのなかに近藤さんの考えを本当にわかっている人がいたのかなと」

 近藤はかねてから、「一族郎党を引き連れていくのは大嫌い」と公言。ただ、守備・走塁コーチの前田益穂だけは中日時代から縁が続き、大洋でもコーチとして招いた人物だった。「僕の気性とかやり方を知った人がいたほうが便利だから」との理由で前田を招いたが、それ以外のスタッフ選びは球団に任せた。

 学閥や郷土閥などの人間関係だけでスタッフを集めれば、監督の退任とともに皆が辞めることになる。そんな考えから基本的にはひとりで新天地に乗り込んだが、日本ハムでは最後まで優勝争いに加わることができなかった。

「環境面でかわいそうだったところもあります。近藤さんはルーキーを生かすケースが多くて、ピッチャーも若手をよく使っていましたが、当時は二軍のグラウンドがひどかった。室内練習場もなかったし、12球団で最低だったんじゃないですか。きちんとした室内があって、いいグラウンドがあって、若い選手が育つ環境が整っていたら、結果は変わっていたかもしれないですね」

【新庄剛志と重なる"自由人"近藤貞雄の監督像】

 1991年10月1日、本拠地最終戦の近鉄戦に勝利したあと、近藤は同年限りでの退任を表明した。「優勝は私の責任と義務です」と就任時に宣言しながら、3年間の最終順位は5位、4位、4位。優勝という結果を残せず、責任をとった。背筋を伸ばし「ファンの皆様を失望させた」と言った会見では表情に暗さはなく、「もうユニフォームを着ることはないでしょう」と締めくくった。

「退任が決まったあと、僕らお世話になった記者連中の主催で送別会を開いたんです。当時、新宿の新大久保にあった有名な鯰料理店で。『珍しいものを食べましょう』とお誘いして。それぐらい、仕事抜きで打ち解けてるところはあったかもしれないです。シーズン中の遠征先でも何度か、移動日の時に食事会を開いてくれる方でしたから。そこまでの監督はいなかったですね」

 1980年代半ばから90年代末まで7球団を担当し、一記者として8人の監督を間近で取材した今野。その目から見ても、近藤はグラウンドの内外で異彩を放つ存在だった。

「本当に、生まれてくるのが早過ぎましたよね。だから、今の日本ハムだったら近藤さんは合うかもしれない。新庄(剛志)監督と似ています。僕は彼がルーキーの頃に阪神を担当していて、やっぱり若い頃は自由人でしたから。近藤さんみたいに個性のある監督ってまず今いないし、新庄ぐらいじゃないですか」

 管理するより、自分で考えさせる。量をこなすより、質を求める。そして、既成概念よりも合理性を優先する。時代に合わなかったのか。それとも、時代が近藤に追いついていなかったのか。

 今野の言う「生まれるのが50年早かった」という言葉は、近藤貞雄という野球人を象徴しているようにも聞こえる。

(文中敬称略)

高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

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