村上春樹の小説が舞台化。
と聞いても、「ノルウェイの森」映画化が少なからず苦い思い出として胸の片隅にこびりついていて、春樹にメディアミックスは要らないぜ、と斜に構えてしまう方もいるのではないだろうか。

しかしお待ちを。
演出は蜷川幸雄である。
世界の村上春樹の小説を世界の蜷川幸雄が演出。
となると話も違ってくる。
エキレビで齢・74歳の大林宣彦監督がとてつもなくすさまじい「じじい」と讃えられているが、蜷川は監督より3つ年上、今年10月に77歳となる、もっと「じじい」である。
だがしかし蜷川幸雄は、じじいとかそういう日常的な問題を超えた壮大かつ激烈なパワーで、村上春樹の文学世界を劇化してしまった。

蜷川の村上は、原作への絶対的なリスペクトを持ちつつ、小説にはない演劇の力への矜持も持って、それを総動員して作り上げられた。
これを、漫画やテレビドラマのメディアミックスをチマチマ、キチキチ、ビクビク、シブシブやっている人たちがどれだけ観ただろうか。皆、観て刺激を受けるべきだったと思う、ほんとに。
舞台のDVD化も盛んな昨今だが、これは映像化はされないそうで、幻の舞台である。
でも、まだ6月に大阪公演がまだ残っている。ラストチャンス大阪公演前に、この公演のことを振り返ってみたい。


原作は「海辺のカフカ」。 
世界幻想文学大賞受賞作品でもあるこの長編小説は、父親とふたり暮らしをしていた少年カフカが“世界でいちばんタフな15歳になる”ために家出。旅先の高松でいろいろな人と出会い成長していく物語。
そのカフカの話と並行して、猫を探しているナカタさんの話や、時間を遡って戦後の話などが重なりあっていく。
台本は以前海外で上演されたものを日本語に翻訳したもの。言わば、「海辺のカフカ」の舞台版、日本初演である。
さらに言えば、日本の演出家で村上文学を演劇化して演出した人物は蜷川幸雄が初めてになるらしい。
ちなみに以前、村上春樹の短編「象の消滅」、「パン屋再襲撃」、「眠り」の3作で構成された「エレファント・バニッシュ」がサイモン・マクバーニー演出で日本上演されたことがあり、それには吹越満や堺雅人が出演していた。

蜷川演出「海辺のカフカ」では主人公のカフカ少年は柳楽優弥。世界のカンヌ俳優がこの作品で初舞台というのもなんとも劇的なシチュエーションである。このキャスティングも蜷川幸雄の演出力。
以前、「包帯クラブ」の映画化(堤幸彦監督)で主演した時も少年期の切実な痛みを感じさせてくれた柳楽くん。
既に二十代になっているにも関わらず、つい「くん」付けしてしまうほどに、まだまだ少年性に満ちあふれていた。真剣に思いつめる眼差しの強さにキュンとなる。
彼の才能を感じた部分は、「僕」の一人称で書かれた原作の独特な語り口をしっかり自分のものにしていたところ。というのは、聴いていて、カフカの気持ちがカラダの中にズンズン染みてきたから。
賢気に哲学的なことを言うカフカだが、それも実感を伴って響いてくる。
歌が楽譜という決まりでできているにも関わらず、生々しいのと同じように、心を込めて唄うようにしたら、春樹節は生々しく響いてくるのだろう、たぶん。

他にも、ナカタさん役の木場勝己や、カーネル・サンダーズ役の鳥山昌克も、春樹節を名調子で聴かせてくれた。
木場勝己は、本広克行監督作品にも出演しているベテラン名優。
鳥山昌克は、アングラ演劇の雄・唐十郎の劇団で長年、唐の言葉を語ってきた俳優で、作家のリズムや譜面を正確に再現できるんじゃないだろうか、と思わせた。自分印も少しまぶしながら。

ナカタさんは子供の頃事故にあったせいで社会的には不自由な生活をしているが、大切なことは誰よりもわかっているんじゃないかと思わせる重要かつ難役。他にカーネル・サンダーズとかジョニー・ウォーカーというアイコン的なキャラクターが登場する。
それから猫。こういう登場人物たちは、小説だと違和感ないが、立体化するのはなかなか難しい。しかし、蜷川と俳優の表現力で、彼らは実に魅力的に存在した。
特に猫(マメ山田、手打隆盛、佐々木美奈、浅場万矢)。着ぐるみが出てきた瞬間は、え? と凍ったが、ちょっとした仕草がリアルでツボり、いつの間にやら見いってしまう。
猫に関しては、小説を読んでる方はおわかりの、でえええええ〜〜、というシーンも果敢に再現されていた。
 
忘れてならないのは、大島と佐伯。ふたりはカフカが訪れた図書館の職員で、彼に多大な影響を与える。
大島は、性別に関する問題を抱えながら生きている。演じるのは、長谷川博己。メガネで机に肘をついてニヤリと笑った時は、おお「鈴木先生」! が、すぐに全然違うキャラに。足の置き方など全体的に仕草が柔らかい。ペンをクルクル回す仕草とお茶を優雅に飲んでるところなど、「鈴木先生」「セカンドバージン」「家政婦のミタ」から長谷川ファンになった人にはたまらなかったであろう。
佐伯は田中裕子。彼女は菩薩のように、内側から静かな光を放っていた。
そんな佐伯とカフカとのシーンは超絶。神話的。
アクリルの水槽を使った演出で生々しさを回避した、演劇ならではのアイデアにため息が出る。
そう、今回の舞台のVIP(P?)はアクリルケースだ。

大きな透明のケースがたくさん用意され、そのひとつひとつに、ソファ、公園の木、人骨模型、トラック、バス、書架に土星などなど・・・と、いろいろなものが入っていて、場面に合ったケースがその都度登場し、俳優はその中で演技をする。
小説は1ページ38W×16Lくらいでぎっしり文字で埋められた何百ページもが集まってできている。モノローグ、ダイアローグ、風景や小物の微細な描写などの文字の集合体に、蜷川幸雄は、舞台の上からはみ出しそうなほどのたくさんの装置で拮抗して見せた。

ケースの中の俳優という、ドールハウスみたいな感じが、現実なのか幻想なのかをわからなくさせるし、また、このケースは、この宇宙に無数に漂っているそれぞれに独立した時間や空間で、それが組合わさり関わり合いながら、いろんな物語ができていくのだなあと思わせる。
また時にそれは、鏡のように人物のもうひとつの像を映し出すこともあるし、ひとりひとりを隔てる何かのようでもある。

蜷川幸雄の想像力が劇場を高圧の海底のようにみっちりとさせる。この作品は「海辺の」だけども。
休憩を入れて四時間ほどもある大作舞台だが、小説に書かれたすべてが入っているわけではない。カットされているところもあるし、外国人が翻訳したせいなのか、少年の父や母に対する個有の問題よりも戦争の話が際立っているような印象を受けた。でもそれがかえって小説に書かれた本質を浮き上がらせたようにも思う。カフカが佐伯さんと語る、ホントの強さについて語るシーンが、痛烈に響いてくる。
それから、真のVIP(今度こそP)は、このケースを動かしているスタッフである。黒のパーカー、パンツ姿のスタッフたちが何人もで押して動かしているという、アナログな人間力でこの舞台はできている。
パーカーのフードをかぶって世界を動かす彼らは、もうひとつの世界の住人である。リトル・ピープルがこんな人たちだったら世界も捨てたもんじゃないのに。
(木俣冬)