これは奇跡のようなアンソロジーだ。
『森見登美彦リクエスト! 美女と竹林のアンソロジー』である。

たぶん説明が必要だと思う。『美女と竹林』というのは、森見が2008年に光文社から刊行した本の題名である。森見登美彦が山に入って竹を伐る本としか言いようがなく、初めから終わりまでとにかく竹を伐る話ばかりだ。森見は京都大学大学院で竹の研究をしており、その領域には学識があるという。とすれば『美女と竹林』は単なる書き散らしではなく、「著者の蓄えた知識や経験を下敷きとし、興の向くままに筆を走らせる」という正統派の「随筆」と呼ぶにふさわしい。
で、その『美女と竹林』の著者が9人の作家に竹林をテーマとした小説執筆を依頼し、自作を含めて10本の短篇で編んだアンソロジーが本書なのである。
なんという竹林愛であろうか。竹林小説アンソロジーはおそらく絶後ではないにしろ空前だろう。竹林小説に本場があるとすれば、竹林の七賢人を産した中国を措いて他にないはずだが、彼の地にもそんな酔狂な本があるかどうかは怪しいものである。
奇跡のアンソロジー『森見登美彦リクエスト! 美女と竹林のアンソロジー』楽しかった、ありがとう

小説に禁じ手はない、と改めて教えられた


参加者は五十音順に阿川せんり、飴村行、有栖川有栖、伊坂幸太郎、恩田陸、北野勇作、京極夏彦、佐藤哲也、森見登美彦、矢部嵩の10名である。執筆の縛りはとにかく竹林が出てくることで、あとがきによれば「美女」は努力目標であったらしい。なるほど、出てこない作品もある。10作は「小説宝石」に2018年1月号から11月号まで月1本のペースで掲載された(7月号を除く)。

こういう競作の場合、テーマとの相性があるのか、真っ向勝負派からうっちゃりとか肩透かしで意表を衝いてくる者までいろいろいて楽しい。唖然としたのは、駄洒落勝負に出た作家が「伊坂幸太郎の他にもう一人」いたことである。誰かは書かない。繰り返して書くが「伊坂幸太郎の他にもう一人」いた。これはちょっとびっくりである。
伊坂幸太郎が駄洒落勝負に出た、と書いてしまうのは、それこそが彼の真髄だからだ。
伊坂は作中でだいたいいつも駄洒落を言う機会を窺っている。深刻な作風のときも隙あらば駄洒落を挟みこもうとしてくる。その執念恐るべし。
日本語で書かれた竹林小説の元祖は『竹取物語』である。当アンソロジーでも何作かが『竹取物語』にちなんだ内容になっており、伊坂の「竹やぶバーニング」もその一つだ。こんな話である。
宮城県仙台市の夏の風物詩といえば七夕まつりだが、たいへんなことが起きてしまう。祭に使われる青竹の一本にかぐや姫が混入したらしいのだ。姫にもしものことがあったら仙台中の竹が根絶やしになり、七夕まつりが開けなくなる。依頼を受けた私立探偵の主人公は、売れっ子ホストの友人を連れて街に繰り出す。友人には遠く離れた美女を見つける特殊能力があるのだ。その名も「美女ビジョン」という。

あ、駄洒落だ。
この小説には、少なくとも3つ、伊坂が精魂込めて考えた駄洒落が仕込まれている。そのうちの1つが「美女ビジョン」である。あとの2つは実際に読んで確認いただきたい。断言してもいいが、この駄洒落を小説にして書きたいために伊坂は「竹やぶバーニング」のあらすじと設定を考え、物語の体をこしらえたのである。滑稽小説作家は以て範とすべきだろう。
もう一作の駄洒落小説も唖然とする落ちである。読み比べるのがしみじみと楽しかった。小説はこういうものなのだと改めて感じ入りもした。話の落ちを駄洒落にしようが何しようが勝手なのだ。最後に感動とかなくてもいいのだ。人が死ななくたっていいのだ。それが小説というものなのだ。自由だ。

「これは〇〇小説」とジャンルを決めてかかる必要もない


滑稽味のあるものから、壮大な思惟を伴う小説まで、作風の幅が広いことも本書の美点である。巻頭の阿川せんり「来たりて取れ」は、「北海道には竹林はない」という一文から始まる。道民のみならず「水曜どうでしょう」視聴者ならば広く知られている事実である。お察しのとおり、作者は北海道出身で、主人公の〈私〉こと馬取ミカ子も同様だ。
同居する恋人の月ちゃん(美女だ)が竹林関係プロジェクトのため京都に転勤することになり〈私〉は激しく動揺する。動揺のあまり「上野動物園にシャンシャンを見に行く」と宣言してなぜか東京に出てきてしまうのだ。この主人公が山手線内で月ちゃんによく似た高校生に遭遇することから話が動いていく。惚気(のろけ)と惚け(ぼけ)とかが程よく同居した楽しいラブコメディである。
これと対照的なのが北野勇作「細長い竹林」と佐藤哲也「竹林の奥」の2篇だ。「細長い竹林」は語り手がいつもの散歩の途中に見なれない更地と出くわすことから始まる。更地の向こうには見覚えのない竹林が頭を覗かせていた。はて、あんなところに、と怪訝に思いつつそちらに近づいていく語り手の視点移動を文章で忠実に再現するのが本篇の眼目だ。「どうも思考が行動に追いついていない気がする。身体がやってしまったことに、意識がその理由を後づけで捻り出しているような」という一文がうまく言い表していて、流れるような動きを書くことに作者は徹している。動きだけを読む小説というのがおもしろい。
「竹林の奥」はまた違った興趣の作品で、「現代文明を象るドグマは常に偶像を運んでくる。偶像を崇めることを強要する」と考える〈わたし〉が、ドグマの虜になって文明の果てる処へと自ら突き進んでいった万代くんという人物に思いを馳せるさまが描かれる。万代くんを誘ったのが竹林にたたずむ美咲さんという美女なのである。現実の時間はわずかしか流れていないのに、思索は文明の滅亡まで一気に突き進んでいく。読者は、その縮尺の巨大さにおののかされるのである。
京極夏彦「竹取り」は「竹林の奥」と同様、人里離れたところに招かれてしまった男の話なのだが、竹林という場所の持つ風土そのものが主役といってもいい内容で、作風はまったく違う。幻想小説が好きな人はそう読むだろうし、終盤で明らかにされる怪異の描き方を見て、この作者らしい、とファンは頷くだろう。同じように社会からの離脱ということを書いているのに、作者が選ぶ手法は千差万別なのだ。
本書全体を括るジャンルがあるとしたらやはり〈竹林小説〉しかありえず、それ以外はいかなるレッテルも貼られることを拒むはずである。小説は作者次第であり、十人の書き手がいれば十の小説が出来上がるのだ、という当たり前のことを再認識させられる。つまり、豊かである。

「美女と竹林のアンソロジー」連載はたまらなく楽しかった


楽しかった、ありがとう。
本書の印象を一言で表すならば以上に尽きる。
私は仕事の都合で毎月、ほぼすべての小説誌を読んでいる。日本文藝家協会の仕事で年間アンソロジー編纂を担当しているから、短篇には網羅的に目を通す必要があるのである。
たくさん、いろいろなものを読んでいる。
だから何を読んでも驚かない。
そんな思い込みを覆されたのは、本書に収録された矢部嵩「美女と竹林」を読んだときだった。
びっくりしたのである。
「美女と竹林」は坂口安吾「桜の森の満開の下」を思わせるような内容で、しかし王朝ものではなくて現代小説だ。Mという男がいて、仕事は泥棒である。なんでも盗んできて間に合わせるMは、ある日気まぐれから女の赤ん坊を連れ帰り、自分の子として育てるようになる。この話が後に『竹取物語』的展開へと化けていく。その展開が、森見登美彦の随筆『美女と竹林』に出てくる有名なフレーズ「美女と竹林は等価交換の関係にある」の絵解きになっているのである。アンソロジーの元ネタを解釈するという行為が物語を生み出しているのだ。
そういう話の仕組みに気づいたときにも無論びっくりしたのだが、「美女と竹林」(矢部小説のほう)は全体だけではなく部分にも目を見張らされる。表現がいちいち斬新なのだ。
赤ん坊を盗むためにMがその親を殺害する場面はこう書かれる。
──刃物を使うと両親は死に、殺すと両親は幾つかに分裂した。
「幾つかに分裂した」とは。
Mは子を〈美女〉と名付け、その通りに彼女は成長する。大学に入るとオタサーどころではない姫状態になって大変なのだが、すべての読者が気づくように、これは小説の『竹取物語』化である。かぐや姫のように男たちの求婚に悩まされる美女の恋愛はなかなかうまくいかない。そのことは、こう書かれる。
──相手と感想戦をしたり一人家で棋譜を並べ直すうち自分に恋人を試す癖があるらしいことを美女は自覚した。
「感想戦」に「棋譜」か。
こうした表現に、私は感服したのだった。これしかないというはまりようなのに、各表現を個別に見ると違和感しか覚えないように言葉が選ばれている。その色置きの見事さ。あるいは使えるものなら何でも使ってやろうというコラージュ技法の潔さ。短篇とは文章だよな、と感じ入ったのである。

小説誌は誰のためのものか


初めのほうに書いたように、本書の収録作は「小説宝石」に月刊ペースで連載された。「美女と竹林」は二番目で、この連載に気づいてから私は毎号同誌を読むのを楽しみにするようになった。もう一つ、こちらは宮内悠介リクエストで『博奕のアンソロジー』という同様の企画も並走しており、その二つの短篇が今度は何が載るだろうかとわくわくしながら「小説宝石」を待つようになったのである。
断言するが、2018年の小説誌は「小説宝石」の一人勝ちであった。それもこれもすべて『美女と竹林』『博奕』という二つのアンソロジー企画があったからである。
他の雑誌と同様、小説誌を巡る状況も明るくはない。一般社団法人日本雑誌協会が発表している印刷証明付発行部数を見ると、2018年7〜9月の小説誌は10年前の2008年同期と比べ、部数がおおむね半減している。最も大部数の「オール讀物」が78,334から39,433、その他「小説新潮」が29,500から9,433、「小説すばる」が20,000から9,000、「小説宝石」が15,834から6,400という状況だ。「小説現代」は2020年3月号のリニューアルを期して2018年10月号をもっていったん休刊したし、最大手の「オール讀物」も2019年から年10回刊行になることを発表した。最も売れる直木賞発表号を2ヶ月売るためだろう。
こうした形ですべてが縮小傾向に見える中で唯一攻めていたのが2018年の「小説宝石」だった。「毎月小説誌を楽しみにする」という状況を作り出せたというだけでも大変なことなのだ。
小説誌が「作家に本を出させるためのツール」と見られるようになって久しい。書下ろしで本を出すのは作家に負担が大きすぎるため、雑誌の原稿料を支払い、連載をまとめるという形で単行本化するのである。それ自体はもちろん悪いことではないが、長篇を、あるいは連作短篇を毎号律儀に追いかける読者が今時どれくらいいるのだろうか。その月その月で独立して読める短篇が少なければ雑誌を購入する読者はこのまま減り続けるだけだろう。また、短篇を書いて腕を磨く機会が与えられなければ、新しい才能が芽を出す機会もなくなっていくはずである。
「小説宝石」の二つのアンソロジー企画は、こうした閉塞した状況に小さいながらも一つの穴をこじ開けてみせた。「読みたいと思わせるコンテンツ」が「毎月掲載」されていて「初めての人でも楽しめる」雑誌のありがたさを、本書を読んで改めて感じた次第である。
 ちなみに『博奕のアンソロジー』のベストは星野智幸「小相撲」。大相撲ファンが読むとびっくりすると思うな。
(杉江松恋)