織田信長にとって最大の危機はどこだったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「足利義昭らの手引きにより信長包囲網が組まれ、次々と部下が離反していった時だろう。
だが、その危機は一人の武将の死によって終わりを告げた」という――。
■「秀吉の退却」「松永久秀の謀反」の背後にいた有名武将
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、第19回「過去からの刺客」(5月17日放送)で、羽柴秀吉(池松壮亮)が驚くべき行動に出た。柴田勝家(山口馬木也)を総大将に据え、織田信長(小栗旬)が北陸方面に派遣した軍勢から、こともあろうに、信長の許しを得ずに勝手に退却してしまったのである。
これが信長の逆鱗に触れることになるわけだが、第20回「本物の平蜘蛛」(5月24日放送)では、今度は「戦国の梟雄」の異名がある松永久秀(竹中直人)が、突如として信長に反旗をひるがえし、秀吉と弟の小一郎(仲野太賀)が必死で説得にあたる。
この2つのできごとは、奇しくも同じ天正5年(1577)8月に起きている。そして一見したところでは、同時期なのは偶然にすぎないように思える。しかし、2つの背景では、じつは同じ武将が影響をおよぼしていた。それは、あまりにも戦に強いため「軍神」の異名があった越後(新潟県)の武将であった。
信長はその前年、家督を嫡男に譲るとともに、「天下人の城」を意識して、琵琶湖に突き出た安土山に広壮かつ豪奢な安土城を築きはじめ、天下一統を完成すべく着々と歩を進めていた。しかし、同時に越後の武将の動きが活発化し、それは信長への脅威になろうとしていた。
■足利義昭によって活発化した上杉謙信
その武将とは、いうまでもなく上杉謙信である。そもそも、柴田勝家が総大将の軍勢はなぜ北陸に向かったのか。
それは謙信の活動が活発化していたからだった。天正4年(1576)4月、大坂本願寺(大阪市中央区)の法主、顕如と和睦したことで、謙信はかなり自由に動けるようになっていた。
裏で糸を引いていたのは、信長と決別し、毛利輝元の庇護下にいた足利義昭だった。鞆の浦(広島県福山市)に移っていた義昭は、いまなお征夷大将軍で、各地の大名に御内書を送って信長包囲網を築こうとしていた。謙信のもとにも天正3年(1575)12月2日付で御内書を送り、武田氏や北条氏、本願寺と和睦し、信長討伐に協力するように求めている。
それが謙信と顕如の和睦につながり、その後、顕如は北陸方面の一向一揆に、謙信に協力するように指示している。
越後の謙信は、以前から越中(富山県)、能登(石川県北部)、加賀(同南部)への進出をねらっていたが、この地域は一向一揆の勢力が根強く、激しい抵抗に遭って侵攻はうまくいかなかった。ところが、これまで強敵だった一向一揆は、いまや謙信にとってむしろ頼れる存在になったのだ。
■松永久秀の謀反の理由
こうなればしめたもので、謙信はまず能登を勢力下に置き、さらに南下しようと目論んで出兵した。その動きを受け、七尾城(石川県七尾市)の長続連(ちょう・つぐつら)は友好関係にあった信長に救援を要請。謙信の南下に危機感をいだいていた信長は、即座に軍勢の派遣を決めた。それが勝家率いる軍だったのである。

謙信の動きは、たんなる南下で済まないはずだった。義昭の要請を受け、本願寺のほか武田家(勝頼)とも和睦した謙信は、上洛を急いでいたと考えられる。
しかも、これまで謙信の上洛にとって最大の障害だった大坂本願寺が、いまでは味方なのである。そんな状況であればこそ、信長は焦って北陸に軍勢を送ったわけだが、天正5年(1577)9月、勝家率いる織田軍は手取川(石川県白山市)で上杉軍の猛攻を受け、大敗を喫してしまった(手取川の戦い)。
松永久秀が謀反を起こしたのは、その前月のことだった。そのとき、大坂本願寺を攻めるために築かれた天王寺の砦で城番を務めていた久秀が、謙信が本願寺と和睦した以上、本願寺を敵に回すより、本願寺側についたほうが脈はあるのではないか、と判断したとしても不思議ではない状況だったのだ。
■相次ぐ謀反を動かした黒幕
一方、信長にとっては、謙信上洛の可能性があるならなおさら、久秀は真っ先につぶしておかなければならない。嫡男の信忠が率いる10万もの軍勢を派遣し、本拠地の信貴山城(奈良県平群町)を包囲させた。太田牛一の『信長公記』にはこう書かれている。
〈十月十日夕刻、信忠は佐久間信盛・羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀にそれぞれの攻め口を命じ、信貴山へ攻め上がり、城を夜攻めにした。松永勢は防戦したが、弓折れ矢尽きて、松永久秀は天守に火を放ち、焼死した〉(中川太古訳)
だが、一難去ってまた一難。翌天正6年(1578)2月には、播磨(兵庫県南西部)の三木城(三木市)を本拠とする別所長治が信長に離反した。
この謀反も種々の史料によれば、長治が単独で判断したとは思われない。この時期、播磨では信長への離反が相次いだが、背後に本願寺の存在が見える。さらには足利義昭が長治の離反を歓迎していることから、これも義昭がたくらんだ信長包囲網の一環であった可能性が高い。
むろん、義昭および本願寺による調略がそれなりに成功したのは、上杉謙信が上洛すれば、さしもの信長も危うい、という判断があったからに違いない。ところが翌3月、だれも予期しないできごとが起きた。謙信が急死してしまったのだ。
■酒好きがたたっての急死
謙信は天正6年(1578)3月15日から遠征に出る予定で、その準備をしていたが、3月9日に突然倒れた。『甲陽軍鑑』には〈寅の三月九日に謙信閉所にて煩出し、五日煩い〉と書かれている。つまり閉所で倒れ、5日間ほど昏睡状態が続いたのち、13日に死去したという。
閉所で急に倒れたことから脳血管障害を疑う向きが多い。謙信は飲酒が大好きだったので、糖尿病が原因の高血圧だったのではないかと考えられている。ともかく、まさに出陣しようとし、そのまま上洛したかもしれない謙信が、こうして急死を遂げてしまった。

しかも、悪いことが重なった。妻帯しなかったとされる(妻はいた、という説もある)謙信には実子がなく、養子を迎えていた。謙信の姉の次男で甥にあたる景勝と、北条氏康の三男でその能力を謙信が高く買っていた景虎。そのどちらを跡取りにするか、謙信はまったく決めていなかったため、その死後、後継を争って御家騒動(御館の乱)が発生し、景虎が切腹に追い込まれるまで1年近く続いた。
こうして、信長にとって最大の脅威になろうとし、その存在があるがゆえに、謀反をくわだてる武将が次々に現れた上杉家は、勝手にどんどん弱体化したのである。
■謙信が死んだことの大きな意味
信長は多くの裏切りに遭った。徹底した実力主義や、きわめて冷徹な合理的判断のもとで、立場を失った人たちが裏切ったと思われる。そして、追い詰められて裏切るかどうか迷うような家臣や配下の武将、国衆たちにとって、上杉謙信は「勝算」を思い描ける希望だったはずである。
ところが、その謙信がいなくなってしまった。それは、織田家に敵対する勢力が天下一統を成し遂げる可能性が失われた瞬間だったといえる。
前述の別所長治は、それから2年近くのち、秀吉による「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めの末に滅ぼされた。謙信の急死から7カ月後の天正6年(1578)10月には、信長から摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)という要地をまかされていた荒木村重が、信長に疑念をいだかれたと思ってか、突然反旗をひるがえした。
だが、もはや足利義昭や本願寺、毛利家の側についたところで、たいした力にはならなかった。
周知のように信長は、最後の最後まで家臣の裏切りに遭う。明智光秀に裏切られ、天正10年(1582)6月2日、本能寺に斃れる。だが、天下一統の事業は家臣の羽柴秀吉に引き継がれ、反信長勢力がそこに介入する余地は、すでにまったくなかった。それも、4年前に上杉謙信が急死したから、といえるだろう。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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