NHK「豊臣兄弟!」では、織田信長が安土城を拠点に移し、物語が進んでいる。豪勢な城のもと、城下町は日々賑わいを増したとされるが、なぜその繁栄は途絶えてしまったのか。
“本能寺の変”だけでは説明できない理由が見えてきた。ルポライターの昼間たかしさんが、文献などを基に史実に迫る――。
■安土の城下町の発展は続かなかった
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で、ここしばらく物語の舞台となっている安土城。いわずと知れた信長の居城である。織田信長(小栗旬)が琵琶湖畔に築いた絢爛豪華な城は、来たる本能寺の変までは物語の舞台として映えるはずだ。
さて、その安土城であるが、今訪れると……愕然とするような風景が拡がっている。
城と共に必ず訪れる滋賀県立安土城考古博物館の展示は充実しているが、周囲に拡がるのは田園風景。最寄り駅であるJR線の安土駅前はレンタサイクルの店がいくつかある程度に過ぎない。今でこそ、史跡としての整備は進んでいる感じはするが、筆者が初めて訪れた1990年代は、もっと単に城跡のある田舎町という雰囲気が強かった。かつての安土町(現在は近江八幡市)の人口は1万人程度。「ヨーロッパにもこれほどのものは存在しない」と言わしめたのに、いまはちょっと寂しい。
本当に安土城が優れた立地であれば、信長が本能寺の変で横死した後も、引き続き支配者の拠点として利用され発展したはずである。
現に、京都や大坂は幾度も支配者が入れ替わっても繁栄を続け、現在も大都市として継続している。では、なぜ安土の町は存続し発展することがなかったのか。
■発展途上、栄える前に終わった
そもそも、安土城が豪奢な天守閣を持つ城だったこと。本能寺の変直後に謎の放火で炎上したことは、多くの人に知られている。一方で、城下町はどうだろうか? 信長が「楽市楽座」を命じたことは知られているが、それ以上のことはあまり知られていない。
実のところ、当時の宣教師・フロイスの記録では人口は5000~6000人で日々賑わいを増していると描かれている城下町だが、江戸時代の城下町に比べると整備が進んだものではなかった。しばらく後の時代に羽柴秀次の居城として整備された近江八幡の城下町が武士と商人の居住地区分を実施するなど計画的な都市を目指していたのに比べると、そこまでの都市計画は進んでいなかったようだ(近藤滋「安土城下町の再考」『滋賀県安土城郭調査研究所研究紀要2003』)。
そこから見えてくるのは、信長の死によって安土城が拠点としての地位を失った時点で、城下町はまだ都市として自立していなかったという事実だ。いわば、発展途上の計画都市が、途中で工事を止めた。つまり「栄えた城下町が廃れた」のではなく「栄える前に終わった」という話である。では、なぜ安土の城下町は「栄える前に終わった」のか。単に信長が死んだからというだけでは説明が足りない。
京都も大坂も、支配者が死に、政権が変わり、戦火に焼かれながらも都市として存続し続けた。安土との違いはどこにあったのか。
■琵琶湖は“日本最大の物流インフラ”だった
まず、信長は安土にどのような価値を見いだしていたのかを見てみたい。
信長が琵琶湖周辺に着目したのは、安土城築城より早かった。1568年の上洛後、反信長勢力との戦いが激化する中で、信長はしばしば琵琶湖東岸に立ち寄っている。目的地は、かつて六角氏の居城・観音寺城の外港として栄えた常楽寺港(現在の滋賀県近江八幡市)すなわち、後の安土城の外港となる場所だった。
なぜ常楽寺だったのか。その答えは、琵琶湖そのものの地政学的な価値にある。
琵琶湖は単なる湖ではない。この時代、琵琶湖は日本最大の物流インフラだった。湖上を行き交う船が、京都と東国・北陸を結ぶ大動脈として機能していたのだ。湖の東岸には北陸・東国・伊勢を結ぶ複数の街道が交差し、湖の西岸には比叡山下の坂本が京への入口として機能していた。
つまり琵琶湖を制することは、都への物資の出入りを掌握することであり、同時に北陸・東国への流通ルートを手中に収めることを意味した。
後に信長が、明智光秀に坂本を与えたことも、この文脈で理解できる。坂本は京と湖内交通の結節点であり、ここを押さえることは京都支配の生命線を握ることと同義だった。信長が琵琶湖周辺の支配を天下布武の最重要課題と位置づけていたことは、その配置からも明らかだ。
■六角氏が育てた商業インフラに、織田の権力を乗せる
なにより、琵琶湖東岸の交通の要衝に、すでに先進的な経済圏が形成されていた。
楽市楽座は信長の発明のように思われているが、実は六角氏が1549年に観音寺城下で史上初めて実施している。信長よりおよそ20年早い。その先進的な商業政策がすでに根づいていた土地の外港が、常楽寺港だった。六角氏はこの港を通じて琵琶湖水運と陸上交通を結びつけ、湖東地域に繁栄をもたらしていた。
信長は更地に城下町を作ろうとしたのではない。すでに機能していた経済圏を接収し、自らの支配下に置こうとしたのだ。六角氏が育てた商業インフラの上に、織田の権力を乗せる……それが信長の戦略だった。

その延長線上に、安土城の築城がある。天正4年(1576年)、信長が選んだのは常楽寺港に隣接する安土山だった。琵琶湖の水運を眼下に収め、湖東の街道網を掌握できるこの場所に、信長は前代未聞の巨城を築いたのである。
さらに信長は、戦略上も拠点を京からは少し離れた琵琶湖沿岸に置くことを重視していた。滋賀県安土城郭調査研究所の所長を務めた研究者の近藤滋は、こう記している。
■安土城は“朝廷に対峙する最前線”
信長は、源平の争乱や南北朝の争乱など、過去の政争が武家社会への朝廷や公家衆の介入に端を発していたことが多々あったことを知っていたものと想像できます。その上で歴史に「もし」が有ったとしたら近江・美濃・尾張と摂津・河内・和泉との間に朝廷を置くこととなり、後堅固の戦略に反することとなります。
故に逢坂・山中越えに対する坂本、朽木谷、若狭に対する大溝、北国街道に対する長浜と、その要に全琵琶湖を一望し、背後に八風・千草街道を控えた湖東地域に、後の幕藩体制下での彦根城や膳所城を配したと同様、この琵琶湖を最前線として京=朝廷に対峙する拠点安土城が必要であったと考えられます。(近藤滋「安土城と琵琶湖 安土築城の背景について」『滋賀県安土城郭調査研究所研究紀要2005』)

先に記した通り、発掘調査で判明している安土城下町の様子を見ると、その後の江戸時代の城下町に比べて居住区域も十分ではなかった。これを踏まえると、信長が中四国を平定した後は、居城をもっと京都や大坂に近いところに移した、あるいは海外進出を睨んで堺あたりに拠点を構えたのではないか……そんな見方もある。
■「天下はここから動かす」実利を伴ったシンボル
しかし近藤は、そうした見方を退ける。
信長にとって安土は「とりあえずの拠点」ではなかった。
琵琶湖を最前線として朝廷を抑え、東国・北陸・畿内への街道をすべて掌握する。その戦略的核心こそが安土の本質だったのだ。城下町の未整備は、信長が安土を見限っていた証拠ではない。城はまだ完成したばかりで、整備はようやく端緒についた段階だった。むしろ信長は都市を育てることより、琵琶湖という巨大なインフラを支配することに本質的な価値を置いていた。
そう考えると、安土城の本質が見えてくる。あの絢爛たる天守閣は、見栄でも威圧でもなく、交通と流通を掌握した権力者が「天下はここから動かす」と宣言するための、実利を伴う旗印だったのである。
しかし本能寺の変が、すべてを止めた。いかに常楽寺港という良港があり、街道の結節点という地の利があったとしても、そこに人を呼び集める吸引力の源泉は信長その人だった。その信長が消えた瞬間に、城下町の発展も止まった。
ここに、安土という都市の本質的な脆弱性があった。
■「信長がいること」だけに依存した町
京都が何度戦火に焼かれても復活し続けたのはなぜか。
大坂が支配者を替えながらも繁栄を続けたのはなぜか。それらの都市は、長い歴史を有しているがために、権力者とは無関係に人を引き寄せるポテンシャルがあった。すなわち寺社、職人の集積、水運の結節点としての経済機能が独立して存在していた。だから、何度焼けようが、支配者が変わろうが人が集まり再興することができた。
しかし、安土はまだ歴史が浅すぎた。楽市楽座で商人を呼び込み、港を整備し、街道を掌握した。しかしそのすべては「信長がここにいる」という一点に依存していた。信長という磁石が消えた瞬間、砂鉄は散った。商人は次の権力の城下町へ移り、職人は仕事を求めて去った。
本能寺の変からわずか13日後に安土城天主が炎上したのは、ある意味で必然だったかもしれない。建物が燃える前に、すでに都市としての安土は終わっていた。
実際、信長が目指した城下町の規模がどれほどのものだったかは判然としない。1994年に滋賀県立安土城考古博物館が開館した際のシンポジウムで建築学者の内藤昌氏は、城下町の規模は5.5平方キロメートルに拡がっていたのではないかと推測している(滋賀県立安土城考古博物館編『開館記念シンポジウム「織田信長と安土城」報告書』滋賀県立安土城考古博物館、1994年)。
■“権力依存の都市”は脆弱
この数字を同時代と比較すると、その意味が見えてくる。徳川家光の時代の江戸がおよそ10平方キロメートル。さらに江戸後期には70平方キロメートル規模にまで拡大した。安土の5.5平方キロメートルという推定値は、江戸初期と同程度のスケールだったことになる。
つまり信長の構想通りに安土が発展していれば、現在の近江八幡市の市街地に匹敵するような都市が琵琶湖東岸に出現していた可能性がある。それが本能寺の変という一点で、すべて止まってしまったのだ。
この後、江戸幕府が琵琶湖東岸に新たな拠点を置いたのは、彦根であった。これは、江戸に幕府が開かれたことで湖上交通の一元支配よりも、東西交通路の支配が重視された結果だったといえる。なにより、江戸幕府が必要としたのは西国に睨みを利かせるための拠点であった。一朝有事の際に名古屋、そして江戸から軍勢が駆けつけるまでの拠点として考えた場合に、最適地は安土ではなく彦根だったのだ(『彦根市史』上冊 彦根市、1960年)。
結局、人流と物流が大きく変わったことで安土は琵琶湖畔の最適地ではなくなったというわけである。
都市とは、権力が作るのではない。人が集まる理由が、その土地にあるかどうか。安土はそのことを、450年かけて静かに教えている。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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