音楽評論家・田家秀樹が毎月一つのテーマを設定し毎週放送してきた「J-POP LEGEND FORUM」が10年目を迎えた2023年4月、「J-POP LEGEND CAFE」として生まれ変わりリスタート。1カ月1特集という従来のスタイルに捕らわれず自由な特集形式で表舞台だけでなく舞台裏や市井の存在までさまざまな日本の音楽界の伝説的な存在に迫る。


2023年5月の特集は「田家秀樹的 90年代ノート」。「J-POP LEGEND FORUM」時代に放送した「60年代ノート」「70年代ノート」「80年代ノート」の続編として、ミリオンセラーが日常となった空前のヒット曲の時代「黄金の10年」を振り返る。PART5は、1998年、1999年のヒット曲9曲をピックアップする。

FM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」マスター田家秀樹です。今流れているのは、LArc~en~Cielの「HONEY」。1998年7月発売。
この曲と「花葬」、そして「浸食 ~lose control~」がシングル3枚同時発売になったんですね。この年の年間チャート7位がこの曲です。他の2曲も年間チャート15位以内に入りました。今日の前テーマは、L'Arc~en~Cielのこの年の最大のヒット「HONEY」をお送りしています。

今週は98年99年、お祭りのような90年代の総仕上げ、怒涛の2年間。その主役を担ったのがバンドですね。
この年の年間チャートの1位がGLAYの「誘惑」でした。「誘惑」は98年4月に出た。「SOUL LOVE」と2枚同時発売で1位2位だった。その3カ月後にラルクが3枚同時に出したんですね。この辺は当時のスタッフを含めて、どこかでライバル視してた結果でしょうね。

99年、この後に話すことになるんですが、GLAYが幕張メッセで20万人コンサートをやりました。
その後、L'Arc~en~Cielは東京国際展示場の野外広場で10万人コンサート「GRAND CROSS」を2日やるんです。両方合わせて20万人という、これも結果的にそうなったんでしょうが張り合ってるように見えました。国際展示場の前の日が「RISING SUN ROCK FESTIVAL」の1回目だったんですよ。僕はさすがに両方は無理だって言って、ラルクだけ見にいったんですが、「RISING SUN」を取材に行ったスタッフは朝まで見て飛行機に乗って会場に来ていた。「大丈夫?」って話をした覚えがありますね。みんな若かったです(笑)。


90年代のバンドも一種の交代期に入っておりまして、97年3月の東京ドームでMr.Childrenがちょっとお休みしてたんですね。でも98年に「終わりなき旅」で活動を再開してミリオンセラーを飛ばしました。この年、ミリオンセラーがシングル14枚、アルバム25枚。とんでもないでしょう? CDが一番売れたのがこの98年ですね。そういう90年代フィナーレ、最大のヒロインがこの人ですね。この曲の衝撃は伝説です。
98年12月発売、宇多田ヒカルさんの「Automatic」。

1998年12月発売、宇多田ヒカルさんのデビュー曲「Automatic」。「これ誰?」っていう会話が全国で交わされたでしょうね。FMラジオに特化したプロモーションでした。テレビに出なかった。このリズム感ですよ。
「7回目」を「な・なかいめ」って発音するだけみんなびっくりしましたからね。こんな日本語あるの?っていうリズム感。言葉の譜割。英語と日本語がミックスされたグルーヴの気持ちよさ。そして何よりもこの声の艶ですね。こんな歌聞いたことがないっていう人が、15歳だった。しかも、藤圭子の娘なのっていう駄目押しの衝撃があった。歴史を変えた歌。ラジオの歴史にも残る歌です。

夜空ノムコウ / SMAP

98年1月に発売になったSMAPの「夜空ノムコウ」。今もいい曲だなと思って聴いておりました。作詞スガシカオさん、作曲川村結花さん。先週は松田聖子さんとか安室奈美恵さんが、それまでのアイドルのイメージを変えた。ママドルっていう言葉が生まれて、結婚して出産してもずっとアイドルでいるんだ、音楽やり続けるんだという例を作った。

「夜空ノムコウ」は男性アイドルのイメージを変えました。こういうバラードのシングルを男性アイドルが歌ってヒットして、しかも内容が青春讃歌でもなければ、恋愛ポップスでもダンスミュージックでもないんですよ。「あれから僕たちは何かを信じてこれたかな」。30代ぐらいの人、今はもっと上かな、青春を回想してる歌ですからね。これをSMAPが歌って、これだけのヒットになった。新しい時代がやっぱりここにもあったんですね。

宇多田ヒカルさんはアイドルにもなりましたからね。スーパーアーティストがスーパーアイドルになった。アイドルとアーティストが一緒になっていった。もう歌が下手なアイドルは登場できなくなったっていうのが宇多田ヒカルさん以前、以降でしょうね。90年代はスタンダードの宝庫だって話を何度もしてますが、いい曲が売れた時代。この「夜空ノムコウ」は最たる1曲でしょうね。新しいアイドルの形が始まったということで言うと、こういう人たちも登場しました。99年7月発売、モーニング娘。「Loveマシーン」。

LOVEマシーン / モーニング娘。

99年9月発売モーニング娘。の「Loveマシーン」。つんく♂の作詞作曲、プロデュース。元シャ乱Qですね。今月は取材をしたことがあったり、ライブを見たことのある人の曲をかけようかなってことでお送りしてます。モーニング娘。は取材したことないんですけども、テレビの「ASAYAN」でオーディションから始めてましたからね。オンディーズの曲を5万枚売ったらデビューさせるっていうことを毎週追っかけてた。タイアップとは違うテレビとのコラボレーションで、それが面白かったので見てたんですよ。取材したことはないんですけども何となく知ってるような気にはなってましたね。シャ乱Qはライブを見てましたし、取材もしたこともありましたけども、つんく♂さんの才能がこういう形で発揮されるんだと思った例ですね。違うフィールドに出会う、違う場所をもらう、違う人たちと関わるってことで自分でも気づかなかったような才能が花開いた例なんでしょうね。

70年代にピンク・レディーがあったり、80年代におニャン子クラブがあったりしましたが、モーニング娘。はちょっと違う。リアリティって言うほど大げさじゃなくても、庶民性も含めて人懐っこいところがありましたよね。日本の未来を歌ってるわけですから。こういういろんなタイプが登場する、まさに百花繚乱の90年代後半ですね。この人も98年のデビューでした。99年10月発売になった椎名林檎さんの「本能」。

99年10月発売、椎名林檎さんの「本能」。すごいですね、この巻き舌。98年というのは、女性アーティストの新しい歴史が始まった年でしょうね。宇多田さんが頂点ではあるんですけども、98年2月には宇多田さんに先駆けてMISIAが「つつみ込むように…」でデビューしてますからね。彼女もR&Bという流れを作ってきた。そういう中で98年5月に椎名さんがデビューしたわけですが、2枚目のシングル「歌舞伎町の女王」。歌舞伎町ですからね。ポップスの女性シンガーソングライターが。歌舞伎町を歌ってるんだと思いました。

99年1月に「ここでキスして。」が出たんですね。あれは衝撃でしたね。エキセントリックな女性の歌っていうのはなかったですからね。駄目押しがこの「本能」のビデオですよ。ナース姿で鏡を叩き割っている。バブルにみんなも浮かれてましたから、てめえら浮かれてんじゃねよって蹴り入れてるみたいな、そういう衝撃がありましたね。99年2月のデビューアルバムが『無罪モラトリアム』で、2000年に入ってからのアルバムが『勝訴ストリップ』。今まで隠されていた何かのベールを一つ一つ剥がしていくような、90年代最後の光と影というのを女性アーティストが歌ってくれました。

99年1月発売ゆず4枚目のシングル「いつか」。ゆずのデビューは97年『ゆずの素』、インディーズでしたね。98年2月、ミニアルバム『ゆずマン』。これがメジャーデビュー。この曲は99年10月に出た2枚目のアルバムは『ゆずえん』の中に入ってました。ゆずの代表曲、デビュー曲の「夏色」なんですが、僕は当時、こっちの方が印象に残ってた気がします。それとこの99年では「友達の唄」。これモータウンじゃんと思ったのがゆずを見直したきっかけの一つでした。

彼らは横浜の伊勢佐木町の横浜松坂屋前の路上で歌って評判になった。路上というのが音楽シーンに登場した。小室哲哉、TKがでディスコを音楽シーンの発信地に変えた。ゆずは路上を発信地にしましたね。それまでもあることはあったんですよ。ホコ天とか新宿西口広場とか大阪城公園とか。あったんですけど、路上でオリジナルを歌うって人たちはあまりいなくて。そこから劇的な登場をしたのがゆずですね。でも僕、さすがに路上では見てなくて、99年に初めてのコンサートツアー、NHKホールだったんですけど、それで見たんですね。弾き語りのフォークじゃないじゃんと思ったのが最初でした。バンドをつけた最初のツアーだったんですけど、彼らはロックだなと思ったのが記憶があります。で、いろいろ調べたり聞いたりしたら、北川悠仁さん、岩沢厚治さん、ロックバンドをやってた。北川さんはX JAPANBOØWYのコピーバンドでドラムを叩いてた。そうか、それでこういうスピード感のあるボーカルなんだと思った記憶があります。ここから路上という幕が開きました。

彼らに影響を与えた、そんな代表的なバンドの中の1人です。99年5月に発売になった、hide with spread beaverの「ピンク スパイダー」。

ピンク スパイダー / hide with spread beaver

98年5月13日発売、hide with spread beaverの「ピンク スパイダー」。9枚目のシングルですね。年間チャートが11位。大ヒットですね。X JAPANは97年12月31日に東京ドームで解散コンサートをやりました。見に行きましたね。ずいぶん遅れて始まりました(笑)。その翌日98年1月1日に、hideさんはspread beaverとして活動を開始して、1枚目のシングル「ROCKET DIVE」に次いだのがこの「ピンク スパイダー」ですね。5月2日に自宅で亡くなっているところを発見されたので、その後に発売になったこの曲が遺作になりました。

5月7日の告別式は5万人の方たちが追悼に集まった。hideさんの訃報を聞いたのは、僕プラハだったんですよ。氷室京介さんの「炎の化石」っていうシングル、当時シングルでは結果的に出なかったんですけど、「炎の化石」のプロモーションビデオの撮影に行ってたんです。その撮影の現場に、hideが死んだらしいよというお知らせが届いて、今は亡くなってしまったライターの佐伯明と一緒に酒を飲みましたね。佐伯さんはX JAPANもhideさんも取材してましたから、かなり落ち込んでましたね。僕はGLAYのツアーの取材を抜けてプラハに行ってた。若かったなと思いながら、そのGLAYのツアーのタイトル曲をお聞きいただきます。

98年7月に発売になった、4枚目のアルバムのタイトル曲「pure soul」。「However」と同じ時期に出きて、同じカセットテープの中にデモテープが入ってたんだと思いますね。「However」とは違う陰影がある曲です。「夢を大事にしろよなんて いつからか言えなくなっていた」。このフレーズが大きかったですね。みんなが夢を歌ってる中で、そんなふうに言えなくなったんだ俺たちは、っていう歳のとり方。これがGLAYのヒューマニティとしてずっと流れてるんだろうなと思いますね。どう成長していくのか。

GLAYは97年にベスト盤『REVIEW-BEST OF GLAY』を出して、これが415万枚だったんですよ。globeを超えちゃったんですね。しかもその1週間後に出た、B'zのベストアルバムに抜かれたっていう。この300万だ、400万、500万だっていう、この数字は何だっていう時代ですね。ベスト盤ブームのピークでしたね。99年には宇多田ヒカルさんのアルバム『First Love』がついに700万枚までいってしまった。天文学的な数字の時代です。

コンサートでもそうでした。GLAYのコンサートの面でのそういう現象が、99年7月31日の幕張メッセ、20万人コンサートですね。最近HISASHIさんが、あれは本当は20万人いなかったんだよって言ってますけど、確かに正確に数えたわけじゃないでしょうけど、20万人コンサートって響きがすごかったですね。

GLAYのデビューアルバム『灰とダイヤモンド』はYOSHIKIさんが作ったエクスタシーレコードでしたからね。そういう流れの中でいうと、この人たちが登場しないわけにはいかない。LUNA SEA、98年のアルバム『SHINE』から「STORM」。

LUNA SEA、98年のアルバム『SHINE』から「STORM」。LUNA SEAは96年に1回活動をお休みして、97年にソロ活動をして、98年からまたバンドに戻った。そのときのアルバムがこの『SHINE』ですね。そして99年1月に、アジアツアーを行ったんですね、台湾と香港と上海。「音楽と人」という雑誌の取材で3ヶ所同行しました。面白かったですね。CHAGE and ASKAのアジアツアーとは違う緊迫感がありましたね。

ビジュアル系というカテゴリーがアジアにはなかった。髪の毛を染めてる人たちがこの街にもいるんだっていう発見が、とっても面白かったですね。香港は失神する人たちが続々でした。5月30日、彼らの結成記念日の翌日、東京ビッグサイトで「NEVER SOLD OUT」という10万人のコンサートがあったんですね。3日前に台風が直撃してステージが倒壊したんです。その倒壊したステージを借景にして演奏した。これは前代未聞でしたね。彼らは、俺たちはビジュアル系じゃないって言ってましたね。アジアツアーの記者会見で必ず聞かれるんですね。ビジュアル系って何ですか? 俺たちはビジュアル系じゃありませんって必ず言ってました。見かけだけで判断しないでくれと。

GLAYの後にLUNA SEAをおかけしたのは理由がありまして、99年12月23日、東京ドームでGLAYとLUNA SEAが対バンしたんですね。史上最大の対バンでしたね。タイトルは「the Millennium Eve A Christmas present for the people who love live a lot」。ミレニアム。90年代の終わりですね。そういう終わりにふさわしい曲は何なんだろうと思って選んだのがこの曲です。大滝詠一さん「幸せな結末」。

1997年11月発売、大滝詠一さんの「幸せな結末」。98年の年間チャートの24位だったんですね。「幸せの結末」のカップリングが「Happy Endで始めよう」というタイトルでした。1枚のシングルで、終わりと始まりを歌ったんですね。大滝さんらしいユーモアといいますか、ウィットといいますか。大滝さんのシングルは85年の『フィヨルドの少女 / バチェラー・ガール』のA面シングル以来12年ぶりですね。

80年代っていうのは、元はっぴいえんど組=松本隆さん、大滝詠一さん、細野晴臣さん、鈴木茂さん。その4人がいろんな形で時代を作ってきた。90年代は次の世代にバトンタッチされた。バンドもそうです。女性シンガーソングライターもそうです。路上の人たちもそうだし、リズムアンドブルースも違う形で流れが始まりましたね。

そういう流れの中で、90年代の終わりに大滝詠一さんのこの「幸せな結末」が大ヒットした。ミレニアムの99年12月31日カレンダーが変わるときにパソコンが誤作動するっていうような噂もありました。誤作動もなく、空前の好景気の中で90年代が終わったんですね。幸せな結末でありました。

流れているのは、この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。10年間、あっという間でしたね。本当にいろんな出来事があった、いろんな曲が誕生した、いろんな人たちが賑わしてくれた黄金期でしたね。本当にいい時代だったなと思います。多分、レコード会社もそうでしょうし、メディアとか、取材していた人たちも、この10年間が一番楽しかったんじゃないでしょうか。いろんなことがありました。その最後、「幸せな結末」で締めてみたんですが、その10年の中にもいろんな転機や浮き沈みがあったり。こうやって改めて振り返ったときにいろんなことが見えてきますね。

景気が良ければ、その分反動もあったりするわけで、それを乗り越えた人たちが今も現役でいるわけですね。乗り越えられなかった人たちもいました。98年、99年、この黄金期、絶頂期を終えた2000年からバンドの解散ラッシュが待ってるんですね。みんなやっぱりいろんなことを経験しちゃって、その反動がきたんでしょうね。この先、俺たちはどこに行くんだっていうようなことが2000年代の幕開けのテーマになった。90年代は右肩上がりの10年でしたけども、2000年代の10年は右肩下がりの10年になっていくわけですが、その話はまたの機会ですね。

この10年間、あまりに駆け足で通り過ぎてしまったんで、7月にもう1回続編をやろうかなと思ってます。続90年代ノート。もうちょっとテーマを絞ったり、アーティストを選んでお送りしようと思いますが、どうなりますか、こうご期待です。

<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp
「J-POP LEGEND CAFE」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストにスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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