連載:NEXT STAGE~トップアスリートのセカンドキャリア
都築龍太インタビュー(後編)
【前編】『サッカー日本代表GKが政治家になるまで 「最初は担がれて出馬しただけ。落選は当然でした」』はこちら>>
「引退したのは32歳の時です。
自身の引退時の心境についてそう振り返るのは、ガンバ大阪、浦和レッズ、湘南ベルマーレでJリーグ250試合に出場した都築龍太である。
2000年代中盤の浦和の黄金期、同学年のGK山岸範宏とのポジション争いはあったものの、都築は正GKとして多くのタイトル獲得に貢献。だが、2009年にドイツ人のフォルカー・フィンケ監督が就任すると、2010年シーズンの開幕前に山岸、加藤順大、大谷幸輝に次ぐ第4GKであることを告げられるなど、戦力外の烙印を押された。その後、移籍先を求めて同シーズン途中から湘南に移り、15試合に出場したが、それが最後のプレーとなった。
32歳というGKとして脂の乗った時期に突如訪れた引退。フィンケ監督には、激しくDFを叱咤しながらゴールを守る都築の様子が、若手を委縮させると映ったようだ。
「多少言い方の問題はあったと思いますが、激しく言わないと、最終的にゴールを決められるのはGKの僕ですからね。『シュートを打たせるな!』とか『もうちょっと詰めろ!』とか。言葉は強かったけど、試合に勝つためというか、普通のことだと思っていました。
たとえばDFがミスしても『オーケー』と言ってたら、また同じことをやりますよね。もちろん、(現在浦和のGKを務める)西川周作くんみたいにソフトに言うやり方もあるのかなとは思います。僕がチームメートをケチョンケチョンに言い続けていたのも、真剣ななかでのパフォーマンスだったというか......。(監督の好みで出番を失うのは)GKではよくあることですし、やむを得ません。でも、もし僕が激しさを失っていたら、もっと早くに現役をやめることになっていたと思いますし、やってきたことにはまったく後悔はないです」
【100%、自分が悪かったです】
都築はガンバ時代の2002年にも、起用法を巡って西野朗監督と対立したことがあった。
プロ4年目の2000年にレギュラーの座を手にした都築は、2002年も開幕からゴールマウスに立ち続けていた。だが、第12節のジュビロ磐田戦で、前半を2-1とリードしながら、後半に4失点を喫し5-4と敗れた。それを機にスタメンを外されたことに納得できなかったのだ。
当時、すでに代表歴もあっただけに、都築にもプライドがあっただろうし、曲がったことを嫌う都築らしいエピソードだったとも言える。
「負けた理由が全部GKのせいになったのが納得できなかった。もちろん、流れを変えるためにGKを代えることがあるのは理解しているんですけどね。西野さんからは『オマエのために外す』みたいなことを言われましたが、そういう遠回しな表現は大嫌いですし、番記者の方には『もう西野さんとサッカーはやりたくない』と書いてくれとまで言ってましたから(苦笑)。
「勝てばうれしいのは当たり前ですが、自分はそういう感情をあまり表に出さないタイプ。ただ、チームが優勝しても自分が出場できなければ、うれしさはありませんでした。だから2006年のリーグ優勝なんて、いっさい喜んでいなかったですから。
2007年のACL優勝も印象的ですが、自分のなかでは2006年の天皇杯優勝がうれしかったのを覚えています。その年、リーグ戦はケガもあったりして、ほとんどギシ(山岸範宏)がスタメンでしたが、天皇杯では最後まで自分がゴールマウスに立ち、連覇することができました。
実はあのシーズン、監督のギド(ブッフバルト)から、僕とギシの『どちらを使うか迷っている』という話を聞かされたことがあって、結果的には(リーグ戦では)ギシが使われることになりました。当時は『結局、使わないなら、そんなこと言うなよ!』と思いましたが、あのとき文句を言わなくてよかったなと思っています(笑)」
【1回くらいワールドカップに...】
長年、ポジションを争った山岸とは、ほとんど口を聞くこともなくバチバチなライバル関係だったことは有名だ。
「話すことはまずなかったですね。振り返れば、僕が出たシーズンもギシが出たシーズンもありましたが、切磋琢磨しながらやれたことはよかったとは思いますけど。もちろん、試合に出られなくて腹を立てたこともありましたし、僕が移籍してくるまではギシが出ていたわけで、ギシのほうが(僕の存在を)邪魔に感じていたんじゃないですか。
ただ、あとに遺恨を残すような仲の悪さじゃなかったです。引退したあとはギシのことを応援していましたし、ギシがモンテディオ山形に移籍し、ジュビロ磐田とのJ1昇格プレーオフでヘディングシュートを決めた時は、声を出して見ていましたからね」
日本代表には2001年のコンフェデレーションズ杯でデビューすると、その後はイビチャ・オシム監督時代を除き、フィリップ・トルシエ、ジーコ、岡田武史体制下で約10年間、代表でもプレーした都築。だが長く代表に招集されながらも、わずかに6キャップしか刻めなかったことには少し悔いがあるともこぼした。
「招集されたり、招集されなかったりはありましたけどね。代表では、呼ばれた期間は長かったですが、能活さん(川口)と楢崎くん(正剛)の存在が大きく、ふたりを脅かすところまでいけなかった。当時は世論も含めてふたりが絶対的な存在で、自分もどこか呼ばれただけで満足してしまっている部分があったと思います。(試合に出たいと)アピールするのも自分は好きじゃなかったし、そこは自分の弱さでした。
トルシエの時はまだ若くて、『試合に使われないなら行きたくない』とはっきり言って、怒られたこともありました(笑)。いま思えば1回くらいワールドカップに行ってみたかったですけどね」
引退は予期した形ではなかった。
「監督批判をしたり、お酒も飲む時は飲んでいましたし、僕は最近の選手のようにストイックではなかった。試合数こそ出場250試合と多くはないですが、もともとプロでそこまでできるとは考えていませんでしたし、充実したキャリアだったと思います。レッズではタイトルも獲れたし、最後はサッカーが嫌になったりもしましたが、それがいいきっかけになり、いまがある。あのあともプレーを続けていたらどうなっていたのか、逆にそれを考えると怖いですからね(笑)」
都築龍太
さいたま市議会議員。1978年、奈良県生まれ。長崎県立国見高校卒業後、1997年、ガンバ大阪に入団。2003年、浦和レッズに移籍し、J1リーグ、天皇杯、AFCアジアチャンピオンズリーグ優勝などに貢献。2010年に湘南ベルマーレに移籍し、この年のプレーを最後に現役引退。日本代表初招集は2001年のコンフェデレーションズカップ。2011年、埼玉県議会議員選挙に出馬、政治家としての道を歩き始める。

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