野球の未来を見ていた男~近藤貞雄伝
証言者・平野謙(前編)

 近藤貞雄が発案したのは、投手分業制だけではない。分業を野手にも適用し、オフェンスとディフェンスで別の選手を繰り出すという戦い方を編み出した。

それを近藤自身、「アメリカンフットボール方式」と称した。

 具体的には、攻撃型のオーダーでゲームをスタートし、味方がリードしたら、終盤はそっくり守備型の選手に入れ替える。勝ちゲームで守備固めの選手を起用する戦法は、それ以前からあった。だが、近藤のように徹底して野手を入れ替え、なおかつ抑え専任の投手で逃げ切りを図る監督はいなかった。

 このアメフト方式に救われた男がいる。1980年オフ、中日から戦力外になりかけるも、監督が中利夫から近藤に交代し、命拾いしたという平野謙である。1982年に2番・中堅でレギュラーとなって優勝に貢献し、1986年には盗塁王。1988年からは黄金期の西武で活躍したが、その時、なぜ生き残れたのか。晩年はロッテでプレーし、19年間の現役生活を送った平野に聞く。

【プロ野球】戦力外候補から一転、平野謙を救った近藤貞雄の慧眼...の画像はこちら >>

【ドラフト外で入団し、背番号は81】

「3年目が終わって、僕は整理選手になっていたそうなんです。今で言う戦力外ですね。ところが、近藤さんが監督に就任した際、その整理対象選手の名簿を見て、『この選手はどんな選手なんだ?』とコーチ一人ひとりに聞いたそうなんです。するとコーチが、『平野は足が速くて守備もできる。

ただ、バッティングはからっきしです』と説明したという」

 その話を聞いた近藤監督は、「バッティングはやっていくうちに打てるようになるから大丈夫だ」とコーチに言い、「平野は残して、もう1年見よう」と選手生命がつながった。

「近藤さんが監督に就任されていなかったら、僕は3年でドラゴンズをクビになっていました。お世話になりすぎたと言ってもいいくらいですし、本当に恩人ですよ」

 平野は愛知・犬山高、名古屋商科大を経て、1977年オフにドラフト外で投手として入団した。「右の本格派」という触れ込みだったが、与えられた背番号は81。あまりに大きな番号だったため、チームの先輩からは「コーチで入ったんか?」と茶化されたという。

 二軍でスタートした1年目(1978年)の後半には公式戦で2勝を挙げ、終盤には一軍昇格の話も持ち上がった。だが、「81番が一軍で投げるのはおかしい」という不可解な理由で見送られた。

「今で言えば育成選手みたいなものですよね。制度は違いますけど、自分の立場はそれくらいの位置づけだったんじゃないかと思います。当時は支配下登録が60人までだったと、あとで知ったんですけど、『81番』という背番号は、つまり支配下選手じゃないという扱いだったのかな、と」

【投手の未練を引きずったまま野手転向】

 それでも、中日新聞には<来季の有望株>として名前が掲載され、翌1979年には背番号が57へ変更された。球団の期待の証だったが、2月のキャンプ中、大学時代に故障した右ヒジの状態が悪化。トレーナーから首脳陣にヒジの状態について報告されたあと、二軍打撃コーチの広野功に「外野をやれ」と言われた。

 広野は1966年から中日、西鉄(現・西武)、巨人でプレーした左の強打者。

現役引退後の1975年に中日スポーツの記者となり、翌76年にはアマチュア野球を担当。その際、大学3年だった平野を見ていた。

 その広野は1978年、中日のコーチとして復帰。こうした縁もあり、野手へ転向した平野をマンツーマンで指導することになった。

「広野さんは、僕が大学生の頃から『平野は野手のほうがいい』と思ってくれていたらしいんです。そんなコーチにいろいろ教えてもらって、『一生懸命練習しました』と言いたいところなんですが、そこまで必死に打ち込んだ記憶がなくて......。言い方は悪いですけど、やらないと一日のメニューが終わらないから、ただやっていただけ。練習が終われば、すぐ遊びに行っていました(笑)」

 野手へ転向したとはいえ、投手失格を告げられたショックは大きく、未練も残っていた。そのため、自主的にバットを振ることはほとんどなく、半ばやけになって遊びながら過ごしていたという。

 野手転向1年目も二軍でのプレーが続き、成績は平凡。それでも、外野守備だけは着実に磨いていた。大学時代から「打つことより守るほうが好きだった」と振り返るように、守備には確かな手応えがあった。

そして翌1980年、平野は新たな挑戦としてスイッチヒッターへの転向を決断する。

「当時は、ジャイアンツには松本匡史さん、カープには高橋慶彦さんと、どこの球団にもスイッチヒッターがいました。でも、ドラゴンズにはいなかった。それなら、やってみてもいいのかなと思ったんです。右打ちがダメだから、という軽いきっかけでしたけどね。キャンプが終わる頃、広野さんの前で左打席からバットを振ってみたら、『いけるんじゃないか』と言われた。それで『じゃあ、スイッチの練習をしますよ』ということになりました」

 もちろん、左打席に立つことで俊足をより生かせるという狙いもあった。試合ではまだ右打席だけに立ち、左打ちは練習に専念。それでも二軍公式戦の出場機会は前年より増え、試合数はほぼ倍になった。

【スペシャリストを積極起用】

 しかし打撃面では結果が出ず、一軍昇格も果たせない。平野自身、その時は何もわからず過ごしていたわけだが、球団から戦力外を通告される前に新監督の近藤に救われたのだった。

「救われたのは僕だけじゃないんです。これもあとで聞いた話なんですが、近藤さんは内野手の柳沢高雄も残しています。

柳沢も守備はうまいけど、僕と同じで打てなかった。それでも翌年には守備固めとして一軍で活躍しました。試合でリードすると、攻撃陣と守備陣を入れ替えていました。近藤さんは先発、中継ぎ、抑えという分業制も確立しましたけど、そのおかげで現役を続けられた投手はいますしね」

 柳沢は上宮高(大阪)から1976年オフにドラフト外で入団。平野と同じように4年間を二軍で過ごし、戦力外候補に挙がっていた。そんな選手にも一軍で生きる道を見いだそうとした近藤の根底には、ドラフト制度がある限り、攻守走三拍子揃った選手だけで先発メンバーを組むのは不可能という考え方があった。それと同時に、中日監督就任時、整理選手の名簿を見た理由をこう語っている。

「どんな選手でも、ひとつはピカリと光る長所を持っている。スペシャリストとしての部分をね。その部分を持っているからこそプロになれたのだ」

 平野の場合、「攻守走」のうち「守走」が光っていた。1つどころか2つも長所を持っていたからこそ、近藤監督1年目の1981年2月のキャンプでは一軍に抜てきされたのだろうか。

「最初は二軍で、一軍の走塁練習の時に呼ばれました。

外野からの送球があるなかで、ランナーが一塁からエンドランで三塁に走るという練習でした。僕はライトに入って、エンドランだろうが何だろうが、ことごとくランナーを刺したんです。そしたら首脳陣が『なんだ? 走塁の練習にならないじゃないか』って言い出したようで。そのあと一軍のオープン戦に連れていってもらいました」

星野仙一のひと言で一軍定着】

 その後のオープン戦では、持ち前の強肩で星野仙一を驚かせた。二死二塁の場面で、中堅を守る平野のもとへ打球が飛んだ。平野がすかさず本塁へ送球すると、低く伸びたボールはノーバウンドで捕手のミットへ。マウンドから本塁のバックアップに入ろうとしていた星野の目の前で、二塁走者はタッチアウトとなった。

 チェンジになってベンチへ戻ると、星野は「こんな送球できるヤツ、どこにおるんや!」と言った。ベテラン右腕のひと言が、平野の一軍定着を決定づけた。

 1981年4月4日、後楽園球場で行なわれた巨人との開幕戦。平野は8回に代走でプロ初出場を果たす。先発して最後まで出場したのは3番・一塁の谷沢健一、4番・三塁の大島康徳のみ。

対照的に、3対1で勝った巨人は西本聖が完投し、先発全員がフル出場した。

 同7日、ナゴヤ球場でのヤクルト戦では左翼のレイ・コージに代わって平野が中堅に入り、初めて守備固めで出場。中堅で先発の田尾安志が左翼に回り、内野では富田勝に代わって柳沢が二塁。この試合でもアメフト方式が適用され、中日がシーズン初勝利を挙げた。近藤はこう言っている。

「個々の選手の総合力では劣るかもしれない。攻守走の三拍子揃った選手がウチには少ないからね。でも、打つだけ、守るだけならトップクラスのものを持っている。それらの選手をうまく噛み合わせるのが僕の役目。一本では弱い矢も三本なら......というやつですよ」

(文中敬称略)

つづく>>

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