説話集の、いわばベストセレクションだ。
本書には、「短い話」と、「めちゃくちゃ短い話」が、合計105篇収録されている。
この巻の収録作はこちら。
・景戒『日本霊異記』(822?)(伊藤比呂美抄訳)
・『今昔物語』(『今昔物語集』[12世紀前半]の福永武彦による抄訳の、さらに抄録)
・『宇治拾遺物語』(13世紀前半)(町田康抄訳)
・鴨長明『発心集』(13世紀初頭?)(伊藤比呂美抄訳)
この巻は、本全集の既刊のなかで、もっともインパクトのある巻だと思う。町田訳『宇治拾遺物語』(後述)を生み出したのは、本全集のグッジョブとして語り継がれるだろう。
煩悩退散なのか、下ネタ万歳なのか
奈良・薬師寺の僧・景戒(きょうかい、あるいはけいかい)が漢文で編んだ『日本霊異記』(中田祝夫による全訳→上・中・下)と、『方丈記』(本全集7巻に高橋源一郎訳が収録予定)の鴨長明(1155-1216)が記録してコメントをつけた『発心集』(浅見和彦+伊藤玉美による全訳→上・下)は、説話のなかでも仏教説話と呼ばれている。
ありがたい仏の教えを説くお話だ。といっても日本なので、インド・中国・朝鮮半島での改変を経た大乗仏教である。
宗教説話というものは、そもそも清浄なお話ではない。人間の欲望や迷いを正面から書いちゃう。すばり下ネタだったり残虐非道だったりする。
仏教は出発時点では、そういう煩悩から自由になるためのものだった。
けど、これらの説話を読んでると、景戒も長明も、ありがたい教えを口実にして、むしろ性欲・物欲・慢心にまみれた人間のトホホ感自体を「笑えるもの」として書くのが、楽しくなってきてるんじゃないかと思えてくる。
『日本霊異記』は全3巻116話のうち、上巻の序と22話を収録している。
冒頭すぐに、
〈天皇、后と大安殿〔おほやすどの〕に寝て婚合〔くながひ〕したまへる時〉(原文は多田一臣校注のちくま学芸文庫版から引いた)
である。これを身も蓋もなく
〈帝と后は宮の正殿でセックスをしていた〉
とした伊藤訳の、あっけらかんとした感じが気持ちいい。
上巻第1話がいきなり天皇の濡れ場から始まるのもたいがいだが、たった2頁のこの話を読んでも、この濡れ場に絶対の必然性があるように思えないのがまたヘンなんだよね。ここは景戒が読者に、
「以下のページにははシモ方面のダイレクトな描写が含まれています。
8歳以上ですか? [は い] [いいえ]」
と問いかけているみたいだ。
とくに印象深いのは中巻13話の、修行僧が寺の吉祥天女像と交接する夢を見て夢精する話。里人が見ると、吉祥天女像も僧の体液で汚れていたという。仏師の作品をラブドールとして使用した可能性があるわけで、業が深い。
なお、伊藤比呂美には『日本霊異記』を題材とした連作短篇集『日本ノ霊異〔フシギ〕ナ話』(2004)があり、14篇を翻案している。
読んでいて鬼怒川堤防決壊を想起する
いっぽう『発心集』全8巻102話中、本書では序と26話が訳されている。
鴨長明が生きていた時代は、平安時代末期から鎌倉時代初期。
2011年の東日本の大地震のあと、京都の文治(ぶんじ)地震(1185)をはじめ大火事・竜巻・飢饉の被害を報告した『方丈記』がちょっと脚光を浴びるということがあった。
同じ鴨長明の『発心集』4巻9話では、入間川の堤防決壊による洪水で集落が全滅する。
〈家のあった方へ行ってみると、三十余町がなんにもない河原になっておりました。あった跡さえ無くなっておりました。あんなにたくさんあった家々も、貯えてあった品々も、朝夕呼び使っていた奴〔やっこ〕たちも、一夜のうちに滅んだ。滅んで、無くなった。誰もいなくなった〉(伊藤訳)
本巻が店頭に並ぶ前日の2015年9月10日に、関東・東北豪雨で鬼怒川の堤防が決壊した。長明の著作は、僕たち2010年代の日本人が自分を投影しやすいフックに満ちている。
巨大な『今昔物語集』
『今昔物語集』は全31巻(うち3巻は現存せず)約1,000話(!)、未完とされる巨大な説話集成だ。
天竺部(インド篇)と震旦部(中国篇)には国東文麿訳全9巻(講談社学術文庫)があり、本朝部(日本篇)は小学館《新編日本古典文学全集》第35巻以下の4分冊に国東らによる共訳が収載されている。
天竺部には仏伝や前生譚(ジャータカ。
僕ら現代の日本人がふつうに読んでおもしろいのは本朝部だ。仏教説話、歴史上の人物伝、技芸の名人伝、戦記、パワースポット情報、狐狸妖怪の話、魔界都市京都の陰陽師や式神の話、笑える失敗談、スカトロな話、犯罪実録、歌物語など、テーマ別に編纂されている。
かつて福永武彦は『今昔物語集』本朝部から155篇を選んで現代語に訳した。
本巻にはそこからさらに厳選された24話が収録されている。能「道成寺」の元ネタである、女が恋慕する僧を追いかけて大蛇に変わる話も、ここで読める。
また伊藤比呂美同様、福永にも『今昔物語集』の翻案小説がいくつかある。そのうち『風のかたみ』(1968)は岩下志麻・坂上忍主演で映画化された。
これを監督した高山由紀子は、『娘道成寺 蛇炎の恋』も監督している(中村福助、牧瀬里穂主演)。
そういえば、福永の師匠筋に当たる堀辰雄にも古典再話があった(ふたりとも本全集第17巻の収録作家だ)。堀の先輩格である芥川龍之介と室生犀星にも古典再話がある。芥川が私淑した夏目漱石もアーサー王伝説をモチーフに「薤露行」(かいろこう)を書いた。
古典の二次創作は、日本近代小説の由緒正しい「作りかた」なのだ。
落語化する『宇治拾遺物語』
翻案というのは二次創作の一種だが、本書で『宇治拾遺物語』全15巻197話のうち序と33話を訳した町田康の仕事は、きわめて二次創作寄りの思い切ったワザだ。
これは本全集のハイライトのひとつになるのではないか。もともと『宇治拾遺物語』というのが、笑える話、トボけた話が多くて、そこに町田康の文章が注がれるや、もう爆笑ものだ。
町田訳には、芥川龍之介の「鼻」「芋粥」や「竜」などの翻案でおなじみの作品が含まれている(芥川というと『今昔物語集』だが、もともと『今昔』と『宇治拾遺』には同じ話がけっこうダブって収録されているのだった)。
芥川ルート以外でも、昔話でおなじみ「こぶとり爺さん」や「わらしべ長者」、『荘子』から引いた孔子と盗跖(とうせき)の対話など、知られた話は多い。
知ってる話が町田康に「カヴァー」されている、という感じなのだ。だからギャップでさらに笑える。話によってはほとんど落語と化した。
瘤を取られた爺さんの顔を見て、妻は……
第1巻第3話、頬に大きな瘤のあるお爺さんが、瘤を鬼たちにとってもらったあと帰宅すると、夫の顔が変わってしまったのをおばあさんが見て驚く。原文ではこうなっている。
〈妻の姥、「こはいかなりつる事ぞ」と問へば、しかじかと語る。「あさましきことかな」といふ〉
これは、小林保治+増古和子訳(これ自体、すでに無茶苦茶おもしろい)ではこうなっている。
〈妻の老婆が、「これはどうしたことです」と尋ねたので、これこれしかじかのことと語る。老婆は、「なんとまあ、驚いたこと」と言う〉
いっぽう町田康はどう訳したか。
〈お爺さんの顔を見て驚愕した妻は、いったいなにがあったのです? と問い糺した。お爺さんは自分が体験した不思議な出来事の一部始終を話した。妻はこれを聞いて、「驚くべきことですね」とだけ言った。私はあなたの瘤をこそ愛していました。と言いたい気持ちを押しとどめて〉(太字強調は引用者)
そんな一節はない(笑)。ニュアンス変わっとるじゃないか!
13巻14話は、インドの聖人優婆崛多(うばくった)が女に化けて弟子の慢心を懲らしめるという話で、山上たつひこの『喜劇新思想体系』のようなコメディだ。そのシメの言葉は、
〈尊者方便をめぐらして、弟子をたばかりて、仏道に入らしめ給ひけり〉
小林+増古訳では
〈尊者はこうして方便をめぐらして弟子を謀〔はか〕って、仏道に導かれたのであった〉
これが町田訳だとこうなる。
〈優婆崛多は若い女に変身して弟子をだますことによって、思い上がった彼を真の仏道にお導きになったのであった。たああああっ〉
たああああっ(笑)。なんですかそれは。
町田訳『宇治拾遺物語』は、このようなアレンジ、スピン、変形に満ちている。読んでいてほんとに腹が痛くなることが何度もあった。
これは麻薬性がある。本巻で読めるのは『宇治拾遺物語』全体の6分の1の話数にすぎない。町田さんいつか全訳してくれないものだろうか。
次回は第11回配本、第24巻『石牟礼道子』で会いましょう。
(千野帽子)