アメリカとイランとの戦争で高止まりしている原油価格は、世界経済に大きな影響を与えている。石油備蓄の少ないインドではさらなる深刻な状況にある。
「軽自動車を作った男」鈴木修元スズキ会長の遺志をついで、同社はインドでクルマ用の新しいエネルギーの投入を始めた。スズキを長年取材しているジャーナリストの永井隆さんがインド現地を取材した――。
■ホルムズ海峡閉鎖はインドでも深刻な問題に
アメリカとイスラエルによるイラン攻撃から、インドではそれ以前も高かったガソリン価格が急騰。このため、充電インフラの整備が進むデリーなどの都市部を中心にEVの販売量は増えている。しかし、インドでは発電量の7割以上が火力。石炭を中心に化石燃料が使用されている。EVが普及するほどに二酸化炭素(CO2)排出量が返って増加する結果を招く。
しかも、日本のような石油備蓄をインドはしていない。「それだけに、ホルムズ海峡が閉鎖されている国民生活への影響は大きい。かなり、危うい状況になりつつある」(マルチ・スズキ幹部)。
マルチ・スズキは自動車トップであるだけに、イラン情勢に伴う原油高、ガソリン不足の影響を否応なく受けてしまう。
だが、スズキグループには窮状を打開する“一手”があった。

■「将来インドは農村だ」
スズキのバイオガス事業本部長を務める豊福健一朗常務役員は、鈴木修から学んだことについて、次のように話す。
「『将来インドは農村だ』ということ。修会長のこの考えがあったから、バイオガス事業をグジャラード州でスタートさせたのです。会長の意志を、インドのみなさんに伝えている。
インドの人口は14億人。このうち農村に住む10億人が、将来のスズキのお客様という意味なのです。いかに、農村に安くて良質な燃料を供給するか、いかにスズキがインドの農村に入り込んでいけるかなんです。10億人を豊かにしなければならない」
■ある動物の糞を利用した「圧縮天然ガス車」
スズキは牛の糞(ふん)からメタン(CH4)ガスを抽出して、圧縮天然ガス(CNG)車の燃料に利用する事業を始めている。ちなみにCNGの主成分はメタンだ。
グジャラート州に昨年末、今年1月と2工場を開設。契約する近隣農家から定期的に集めた牛糞を発酵させ、メタンが成分のバイオガス(CBG)として工場併設のスタンドで販売している。
農家からの買い取り価格は、牛糞1kg当たり1ルピー(日本円で約1.7円)。
一頭の牛から年間7万2000kgの牛糞がとれるため、牛が二頭いれば15万ルピー弱の年間収入を農家は得られる(たいていの農家は農耕用に牛を数頭飼っている)。
一方、CBGの販売価格は1kg当たり75ルピー。CNGの同81ルピーよりも安い。
インドには8億頭の牛がいる。インドの牛は草を食べる。穀物肥料を食べるアメリカの牛とは違う。
草は光合成により、大気中の二酸化炭素(CO2)を吸収するため、車両が走行中に排出するCO2とは相殺される。なので牛糞はカーボンニュートラル燃料と位置づけられている。化石燃料のCNGとは一線を画す。
また、草食なので糞はそれほど臭くはない。
■CNG車のシェアは7割
インド政府は、CNG車の普及を後押ししている。インドでは高騰中の原油の9割を輸入に頼っている一方、CNGは国内でも産出されるから。

CNG車はインド自動車市場の約2割を占める。マルチ・スズキはCNG車市場で約7割のシェアをもつ。
現在、マルチ・スズキには商用車を含めて19車種のラインナップがあるが、このうち15車種にCNG仕様がある。24年度には62万台を販売し、販売構成比は35%。20年度が約16万台で構成比12%と比較すると、大きく伸びている。トップメーカーであるマルチ・スズキの伸びが、CNG車の販売増に連動している。
■1日100トンの牛糞を取り扱い
CNG車はガソリン車にCNGタンクを装着するだけで使える(CNGは気体燃料なのでエネルギー密度は低くガソリンと併用される)。かつては後付けで荷室にタンクを設えていたが、現在は床下に最初から工場で装着している。
マルチ・スズキの同じ車両で価格を比較すると、CNG車58.9万ルピー(約100万円)に対しガソリン車49.9万ルピー(約84万円)とCNG車の方が2割ほど高い。その一方、燃料代はCNGの方が42%安い(CBGならさらに安い)。走行距離が長いほど、お得になっていく。
メタンを抜いた牛糞の残りかすは、農業用肥料として販売している。

スズキ・バイオガス事業部主幹の山野博之は「CSRではなくあくまで事業。CBGだけではいまのところ採算はとれず、肥料の販売増が黒字化するポイント」と話す。
3月、報道陣に公開した1月開所のカブラ工場では、1日100トンの牛糞を取り扱い、約1.5トンのCBGを生産する。今後、充填スタンドはインド全土に展開していく構想だ。
スズキはインドの主戦場を農村と考えている。小規模な自動車販売店の展開を農村で始めているが、エネルギーの供給を含め農民の生活にまでレンジを広げている。これまで捨てていた牛糞を出荷することで農家の所得はアップ。さらに、新しい雇用も増えていく。
インドの農村部も大気汚染は深刻だ。多くの地域は二毛作なので、耕作地で“野焼き”が広く行われているうえ、農家の多くは調理に薪を燃やしていて、さらに自動車の排ガスなどが原因とされている。
カブラ工場にいたインド人幹部は「何もなかったカブラ地域で、(新しい)エネルギーを作るのは、とてもとても大切なことなんだ」と熱く話す。
インド政府は欧州の動向を見ながらEV普及を推し進めているが、トップメーカーのマルチ・スズキはEV以上にCNG・CBG車に力を入れているのは特徴だ。
さらに、今後はバイオエタノールの展開を計画する。
■鈴木修は常に貧しい農村によりそった
マルチ・スズキ四輪事業本部長の藤井辰彦は、こんなことを言う。
「インドには『ジュガール』という思想があります。いまあるものを組み合わせて、欲しいものを手に入れていく、というもの。
スズキもゼロから新しいものをつくるというより、知恵を絞っていまあるものから良い車をお客様に提供していく、というのが基本の思想。つまり、ジュガールと“スズキらしさ”は重なり合うのです」
インドには8億頭もの牛がいて、マルチ・スズキには7割のシェアをもつCNG車がある。あるものを組み合わせてCBG事業はスタートした。その先には、貧しい農村の地域経済を活性化させ、10億人をとりこもうとする意図がある。
「インドでは、お金持ちでも、そうでない人でも、『今日より明日は幸せになる』と、みんな考えている」と藤井。
スズキには、超高級車はない。もともと軽専業だったスズキは、貧しき人々に寄り添いながら成長してきた。1978年から経営の指揮を執った鈴木修のもとでだった。
鈴木修は、「軽自動車のユーザーは、所得の低い人が多い。(軽自動車税の増税は)弱い者イジメだ」という発言もしている。
インドでも貧しい農村に寄り添っていく。現地の人を育てながら。
■カースト制度を超えた長期的視点
スズキは軽自動車「アルト」に800ccのエンジンを搭載した「マルチ800」をもって、自動車をはじめ近代工業そのものがなかったインドに入っていった。それから40余年が経過した。スズキがインドで成功を収めた理由は、一部の富裕層だけを狙ったのではなく、民族も宗教も多様に交錯するマジョリティー(大衆)から支持を得たからではなかったか。高額で豪華な手の届かないクルマではなく、「少し頑張れば届くマルチ800」を、クルマを本当に必要とする人々に供していった。カーストを超え、差別も区別もなく、長期的な視座に立ってである。
iACE(国際自動車センター)は、グジャラート州政府とマルチ・スズキが2015年に合弁で設立した教育機関。グジャラート州を拠点に、学生や産業関係者の訓練と技能開発を推進し、自動車産業を担う人材育成を目的にしている。これまでに生産技術や自動車設計など500以上の企業や団体から、1万人を超える人材に対して教育・研修を実施してきた。
iACEのE.ラジーブ常務は次のように話した。
「現場が基本であり、とても大切ということを鈴木修さんから学びました。
現場についての実践的な教育を、ここでは行っています。将来、インドの産業を担う、学生やいろいろな会社のエンジニアに対し平等にです。現場についての日本の考え方、例えば品質保証がどうして大切なのか、5S(整理、整頓、清掃、清潔、躾)について、発生したある問題と解決手法について、新しい技術について、インド人に伝えている。日本の考え方とインドの考え方とを合わせ、世界で起こる諸問題に対しても、答を出せる人材を育てたいと考えています」
鈴木修の教えは、国境を越えてインドの若者たちにも伝えられている。経済成長と格差拡大との間に、「中小企業のオヤジ」の魂が宿る。

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永井 隆(ながい・たかし)

ジャーナリスト

1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社/新潮文庫)、『日本のビールは世界一うまい!』(筑摩書房)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『EVウォーズ』『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。

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(ジャーナリスト 永井 隆)
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