■史料に残る秀吉と勝家の決裂の様子
天正5年(1577)8月8日、柴田勝家(山口馬木也)を総大将とする軍勢が、加賀(石川県南部)や能登(同北部)へ遣わされた。その目的は、越後(新潟県)の上杉謙信の南下を食い止めることだった。当初は織田信長(小栗旬)がみずから出陣する予定だったが、総大将は勝家にゆだねられた。
すでに勝家は越前(福井県北東部)を領土とし、北庄城(福井市)を本拠にしていた。北陸方面の軍事作戦で信長が出陣しないとなれば、勝家が総大将を務めるのは、至極当然だった。
もちろん、そこに羽柴秀吉(池松壮亮)も従軍していた。ところが、なんと秀吉は勝手に帰陣してしまったのである。太田牛一の『信長公記』にはこう書かれている。〈羽柴秀吉は柴田勝家と意見が合わず、許可も得ずに陣を解いて、引き揚げてしまった。信長は、けしからぬことと激怒した。秀吉は進退に窮した〉(中川太古訳、以下同)。
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第19回「過去からの刺客」(5月17日放送)では、武家の誇りを重んじる勝家と、合理的な作戦を提案する秀吉のあいだに溝が生じ、秀吉が「勝手に帰陣」という賭けに出る模様が描かれる。
■餓死者の肉を食した「三木の干殺し」
秀吉がなにを原因に、信長の許可なく勝手に戦線を離脱するという思い切った行動に走るに至ったのか、具体的なことはわかっていない。しかし、勝家と意見が合わないということは、2人のタイプを思い描いただけでも容易に想像できる。
秀吉らしさは、この時期からの戦い方に典型的に現れている。味方の損失は最小に止めながら最大の効果を得る、というものである。
天正6年(1578)3月に開始された三木合戦では、離反して毛利方にくみし、三木城(兵庫県三木市)に籠城した別所長治に対し、徹底した兵糧攻めを行った。三木城の周囲に40もの付城(敵の城に対峙して築かれる臨時の城)を築き、1年10カ月にわたって包囲。食料の補給路を完全に断って、別所一族の自刃と引き換えに、城兵を助ける約束で降伏へと導いた。
たしかに武器による戦いがないので、味方の損失は非常に少なくて済む。しかし、城内にいる兵士や馬などを飢えさせる極めて残酷な戦法であり、三木合戦も「三木の干殺し」と呼ばれる凄惨な状況を生んだ。餓死者が続出し、生き残った人は飢えをしのぐために、牛馬はもちろん、壁の土や草の根、さらには餓死者の肉まで食したと伝えられる。
また、秀吉は助けられる約束だった城兵を虐殺したとする史料もある。
■人肉の奪い合いが起きた「鳥取城の渇え殺し」
城兵の虐殺はいかにもありそうだ。
そんな残虐行為があったからこそ、別所長治は秀吉のもとを離れて毛利側につく決断をし、三木合戦がはじまったともいわれるのだ。
さて、「三木の干殺し」が、時間こそかかったが成功したので、天正9年(1581)の鳥取城(鳥取市)の攻囲では、さらに徹底した封鎖作戦がとられた。周囲の米を相場の数倍の高値で買い占めて城内に備蓄させず、そのうえで2万の大軍で包囲して、外部からの補給を完全に断った。飢餓地獄の城内では、人肉の奪い合いさえ起きたと伝わる(「鳥取城の渇え殺し」)。
続けて、本能寺の変が起きるまで行っていたのが、備中高松城(岡山市)の周囲に堤防を築いて水を引き入れ、城兵を飢えさせて降伏させた「高松城の水攻め」だった。これら3つは「秀吉の三大城攻め」として知られる。
■秀吉とは真逆の柴田の戦い方
一方、勇猛なことで知られたのが柴田勝家で、織田信長を支えた宿老のなかでも、とりわけ猛将のイメージが強い。象徴的なのが「瓶割り柴田」の逸話である。それは元亀元年(1570)6月、勝家らが野洲川(滋賀県野洲市)をはさんで六角氏と戦い破った野洲河原合戦の直前に起きたとされる。
山鹿素行の『武家事紀』などによると、この戦いに先立って六角氏は、勝家がこもる長光寺城(滋賀県近江八幡市)を攻め、城内で唯一という谷からの水源を止めさせた。
それが勝家の軍勢の勝利につながり、以後、勝家は「瓶割り柴田」とか「鬼柴田」などの異名を得たとされる。この逸話の真偽はともかく、勝家はそういう逸話が似合う人物だったということだ。
秀吉の合理的だが残酷で、ある意味ズルい戦法と正反対であることはまちがいない。
■信長に忠義を尽くすしかない
勝家は最初、信長の父の信秀に仕えたが、天文21年(1552)に信秀が病死すると、信長ではなく同母弟の信勝に仕えた。そして、信長と信勝が争った際には、信勝側の部隊に参加して信長側の将を討ち取るなどした。
その後、兄弟は和解したが、信勝はふたたび兄を倒そうと画策。そのとき、弟の「謀反」を信長に密告したのが勝家で、それを受けて信長は信勝を誅殺した。そんな過去があるだけに、勝家はほかの武将以上に、信長にまっすぐに忠義を尽くしたといわれる。
一方、百姓の生まれで、わずかの期間に織田家の重臣の地位にまで上り詰めた秀吉は、真っすぐに忠義を尽くすだけで出世できたとは考えられない。機転を利かせ、先例にとらわれずに柔軟に思考し、人が思いつかないようなことを次々と実行する――。
水と油。だからこそ、「柴田」から1文字とって「羽柴」と名乗るなどのおべっかを使う必要もあったのだろうが、所詮は水と油だったのではなかろうか。無断で勝家のもとを離れて帰陣した件もそうだ。戦法について「三木の干殺し」と「瓶割り勝家」で議論したところで、『信長公記』が書くように、〈羽柴秀吉は柴田勝家と意見が合わず〉という結論にしかならないと思われる。
■秀吉と勝家の集団指導など不可能だった
天正10年(1582)6月2日、信長が本能寺に斃れると、同月27日、織田政権のその後の体制を決めるために、清洲城(愛知県清須市)で清須会議が開催された。織田家当主は信長の嫡男、信忠の遺児の三法師に決められ、勝家、秀吉のほか、丹羽長秀、池田恒興の4家老による集団指導体制がとられることになった。
だが、秀吉は丹羽長秀や池田恒興と、婚姻関係を結ぶなどして連携を強め、集団指導体制のバランスはすぐに崩れた。蚊帳の外に置かれた勝家が、信長の三男で三法師を手元に置く信孝と連携を強めると、次に秀吉がとった策は、織田家当主の座を三法師から信長次男の信雄に替える、というものだった。
秀吉は最初から、勝家を外そうとしていることは見え見えだった。そして、外すためには手段を選ばなかった。このずる賢さが秀吉流だが、そもそも、信長という最大級の重しがあるときでさえ、勝家のもとからは無断で逃げてしまう秀吉が、勝家とともに集団指導体制など敷けるはずがなかった、ということだろう。
知れば知るほど秀吉という人物は恐ろしい。市が柴田勝家と再婚したのも、そんな秀吉をよく知っていればこそ距離を置きたかったから、かもしれない。
そのずる賢さに「瓶割り勝家」は到底勝てない。だから、黙って従うしかなかったのだろうが、猛将たる勝家にそれはできなかった――。秀吉が勝者になった以上、勝家は滅ぶしかなかったのかもしれない。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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