7月25日に衝撃的なニュースが飛び込んできた。J1鹿島アントラーズの元日本代表MF土居聖真がJ2モンテディオ山形に完全移籍で加入した。
アカデミーから鹿島一筋で過ごしてきた男は、誰もがJリーグ屈指の名門でキャリアを終えると思っていたが、出身地の山形県へと帰還した。
土居の加入からチームは勢いづき、背番号88の加入後はリーグ戦9勝1分1敗と10季ぶりのJ1復帰に向けて快進撃を続けている。
Qolyは山形に移籍した土居にインタビューを実施。
山形移籍の経緯、故郷への想い、J1復帰への意気込みなどを尋ねた。
(撮影・取材・構成 高橋アオ)
山形移籍の経緯とは
試合では表情を変えずに相手の急所を射抜くように鋭いパスを前線へ送り、き然とした振る舞いでチームを鼓舞する土居だが、この日行われた取材では終始温和な表情を浮かべて受け応えた。
鹿島ではチームのチャンスメイカーとして君臨し、常勝軍団のストライカーたちのゴールをアシストしてきた。繊細かつ大胆に。すり抜けるようなドリブル、柔らかいタッチ、そして高精度の縦パス。天才と称された元日本代表FW柿谷曜一朗(J2徳島ヴォルティス)も絶賛するほどのテクニシャンだ。
アカデミーから鹿島一筋の土居はなぜ山形移籍を決断したのか。その答えは新たな挑戦にあった。
――山形移籍の経緯、決定づけた理由を教えてください。
「ここ数年鹿島のレギュラーとして1シーズンを戦うことがなかなかできない中で、現状に満足していませんでした。
鹿島で(現役選手としての)生涯を終えて、現役を終えてからも『鹿島にいるんだろうな』という未来を想像していましたけど、なかなかプレー時間が伸ばせないところにストレスを感じている自分がいました。
気持ちが変わったといいますか。『自分をピッチで表現する場所は、別に鹿島じゃなくてもいいんじゃないか』という考えになっていたときに、モンテディオさんからオファーがありました。熱烈といいますか、芯のある気持ちのこもったオファーだったので、光栄といいますか。これは『チャレンジするタイミングなのかな』と思って決断しました」
――山形から熱烈なオファーを送られた際、どのような言葉を掛けられて心が動かされましたか。
「獲得する選手に対していいことばかり言うことは、もちろんだと思います。誘惑、甘い言葉で誘っているという感じではなくて、渋澤(大介)強化部長の目の奥から嘘偽りない、このチームを変えたいという熱意を感じました。
僕もその期待に応えたいと思わせてくれる特別な言葉というよりは熱量といいますか、オーラといいますか。すごく熱意を感じた面談だったと覚えています」
鹿島は特別なクラブ
これまで土居は鹿島でリーグ戦332試合、国際試合を含めた公式戦463試合に出場した。多くの人間が日本屈指の名門に骨を埋めるものだと思っていただろう。だが今夏に故郷のクラブへ電撃移籍。
決してクラブへの忠誠が薄れたわけではなく、愛が冷めたわけではない。
――鹿島に残る選択はありませんでしたか。
「もちろんありました。契約もまだ来年まで残っていましたし、残ろうと思えば残る選択肢もありました。鹿島からは止めてられました。『冬までに1回考えてくれ』と当たり前のように言われました。
いまこの瞬間を振り返れば(妻の)出産もあったので、『良かったのかな』と思いますけど(苦笑)。なので数カ月前の自分はなぜそう決断したのか分かりません(笑)。
いま思ったら(第2子の出産を控えた)奥さんは本当に大変でしたし、『すごい時期に決断しちゃったな』という思いもありますけど、それが自分らしくて良かったのかもしれません。自分が決めたことなので悔いはないです」
――改めて鹿島のクラブ、サポーターへの思いを教えてください。
「僕が若かったころは海外移籍するにあたって、タイトルを取って一人前になってから移籍することが暗黙の了解という考え方がありました。ちょっと試合に出たからといって移籍するという考えを持っていなかったです。
鹿島が好きで、鹿島が優勝するためにすべてを捧げてきた鹿島時代でした。学生時代はなかなか全国大会で優勝する経験がなくて、自分が試合にレギュラーで出られるようになってからも『優勝することは、ないだろうな』と思っていました。だけど一応タイトルにすべて関わらせてもらって、『このクラブは特別なんだ』と思いましたね。
僕が優勝させたと思っていないですけど、鹿島アントラーズはそういう力があるクラブで、入団して力になれたことはすごく光栄でした。
ACL(AFCチャンピオンズリーグ)も僕らが優勝するまで取れてなかったことは『何で取れなかったんだろう』というか、僕らより先輩方のほうが素晴らしいサッカーをしていたと思います。
鹿島で取れるタイトルをすべて取りましたし、クラブW杯は優勝できなかったですけど、準優勝もできて素晴らしい鹿島時代を過ごさせてもらいました。
目の前で他のクラブに優勝されるという経験も何度もしました。悔しくて辛い時期もファン・サポーターの皆さんが一緒に乗り越えてくれたから、輝かしい美談になるような話がいまできると思っています。
“常勝軍団”なんて言われていましたけど、いいことばかりじゃなかった。もちろん辛いこと、全然勝てない時期もありました。試合に出られない時期もありましたし、ケガもしました。そういう経験も含めてアントラーズで育ててもらったというところがあると思っています。
鹿島でもうやれることを全部やったといいますか、取れるタイトルもすべて取りました。(移籍の理由は)そこもちょっとあったと思います。
鹿島では『本当に精一杯やったな』という思いがあるので、また違った環境で第2のサッカー人生をスタートできればという思いで山形に行きました」
――土居選手が過去にベガルタ仙台ジュニアユースを受験したという話を聞きました。山形のジュニアユースを受けませんでしたか。
「(当時)12歳の少年でしたから、どこに行くか迷っていましたね。何が正解なのかまったく分かりませんでした。
山形県選抜の集まりが多くなってきたときに、自チームの監督さんだけじゃなくていろんな少年団、クラブチーム、サッカー協会の指導者の方と接する機会が多くなりました。自分のチーム以外の人と喋る機会が多かったときによく言われていたことが『聖真は山形に留まってはいけない』とすごく言われましたね。
それが印象に残っていて、『僕は山形にいちゃいけないんだ』と小さいころから自分なりに思っていました。
いろいろ遠征もしていましたから、そのころはマリノスが強くて、マリノスのアカデミーとよく練習試合もしていました。そこで『ああ、こういう世界もあるんだな』と肌で感じたときに、あの言葉が刺さったというか。
山形では『敵なし』といいますか、王様でやっていたから『外に出るということは、こういうことなのかな』と思っていました。
ただ小学生最後のフットサルの全国大会があって、それがチビリンピックという大会でした。そのときに対戦はしていないんですけど、同じ大会に出ていた鹿島ジュニアの監督さんで、現在はFC東京のアカデミー(コーチ統括を)でやっている宮本(貴史)さんから『セレクションを受けないか』と僕のチームの監督さんが言われたみたいです。
最初は嘘だと思っていたんですけど、こっちから売り込んでいるんだと僕は勝手に思っていて(苦笑)。そしたら『受けに来てほしい』ということで(セレクションに)行ったら受かりました。(それから)家族会議が開かれまして、『どうするんだ』といわれて、仙台だったら親戚や友達とも1時間くらいで会えるけど、鹿島だとそうはいかない。しかもお父さんは仕事を辞められなかったので、お母さんだけ一緒に行くことになりました。
(親から)『(鹿島へ)行けるの?』と聞かれて、号泣しながら『(鹿島に)行きます』と伝えましたね。仙台のほうには親と一緒に断りのあいさつに行ったことをすごく覚えています」
サッカー文化が根付いた故郷
山形で過ごした12年間の大半はサッカー漬けの日々だった。そのため故郷の記憶は競技に打ち込んだ日々で占めている。
そして32歳にして帰郷した背番号88は、プライベートでこれまで堪能できなかった故郷の味などを楽しみ、自身に声援を送るサポーターの熱量に胸を打たれている。
2017年12月にJリーグ発足後では山形県出身者として初めて日本代表に選出され、通算2試合に出場した土居は、山形の人たちの期待にプレー、立ち振る舞いで応えようとしている。
――幼少期を含めてモンテディオ山形に抱いていた印象を教えてください。
「僕が従兄弟とおじいちゃんと一緒にスタジアムに行くことがありました。勝った、負けたというよりはプロ選手のサッカーを観に行っていたという印象が強いですね。
約20年近く前は集客人数何人か(正確に)覚えていませんけど、数百人のときもあれば2、3000人のときもあったと思います。それに比べて、僕が来てからはほとんどの試合で1万人前後のお客さんが入っています。試合前、試合途中、試合後のイベントもたくさんあります。率直な町の感想としては、僕が幼少期にいたときより『サッカー文化が根付いたな』とすごく感じています。
若い人でもおじいちゃん、おばあちゃんでも声を掛けてくれて、『この間の試合は良かったね』とか。『あ、こんなにお年寄りの人でもモンテを応援しているんだ。試合を観てくれているんだ』とそこで感じました。
モンテディオへの期待は昔と比べものにならないぐらい上がっていると感じています。ホーム最初の徳島戦は不思議な感覚でしたね」
――故郷のクラブでプレーすることは特別ですか。
「特別ですね。小学校6年間はサッカーしかしていなかった記憶というか。遊ぶとなってもサッカーをしていたと思います。サッカー漬けの6年間だったことを覚えているというか。それしか記憶にないという感じですね。6年間は遠征、試合の連続だったと思います」
――プライベートでは山形を楽しまれていますか。
「そうですね。なるべく行ったことのない飲食店にも行くようにしています。一つでも多く山形を感じられるように、いろいろな店に行っているつもりです。それはそれで楽しいですし、もっと知りたい思いがあります」
――鹿島のサポーター団体インファイトもすごい迫力だと思うんですけど、山形もゴール裏が青白の壁のように迫力があります。サポーターの印象を教えてください。
「本当に申し訳ないんですけど、J2(の観客者数)は少ないイメージがありました。ホームは『4、5000人、アウェイも10人くらい来ていればいいのかな』という感じだったんですけど、山形サポーターの方々はアウェイでも多く来てくれています。すごく熱量があるサポーターさんたちです。数試合しかしていないんですけど、印象付けられました」
――(亡くなった祖父に)アジアのタイトルなどを見せられたと思いますけど、山形での思い出もあるかと思います。山形ではどういった思いでプレーされていますか。
「クラブからもそうですけど、僕が思っている以上に県民の皆さまが期待してくれている。『僕はそんな大した選手じゃないのに』と思うんですけど(苦笑)。
そうやって期待してくれたり、応援してくださっているので、それには『応えなきゃな』という思いもあります。それほどサッカーに対する熱意は、熱くなって、高くなっていると思っています。
変にプレッシャーを自分にかけるわけじゃないですけど、やれることは最大限ピッチ内、ピッチ外でもやれていれば自分のためにもなるし、皆さんのためになると感じています」
――移籍後に第2子が生まれました。山形でどのような生き様を見せていきたいですか。
「上の子はもう分かってくれているんですけど、下の子はまだ(土居がサッカー選手だと)全然認識していないです(苦笑)。下の子がサッカー選手と分かるまでもっと頑張りたいと思います」
――Jリーグ発足後では山形県出身者初の日本代表選手として出場した経験もあります。アカデミー出身だと半田陸選手が日本代表に招集されました。日本代表を目指している山形のサッカー少年たちに見本としてどのような振る舞いを見せていきたいですか。
「難しいですけど、僕は人と同じことをしたくない特徴があります。スパイクや、服の色ですら被ることが嫌でして(苦笑)。子どもたちには『普通の人と違う』というところを見せたいです。
それは私生活でも悪い意味じゃなくて、いい意味でオリジナル性があるといいますか。私生活でもプレー面でも何かちょっと雰囲気が違うとか、普通の人とプレーが違うと思ってもらえるような振る舞いができればと思っています」
モンテディオ山形で成すべきこと
鹿島の中核としてクラブに数々のタイトル獲得をもたらしてきた。常勝軍団のメンタリティを土居から享受してほしいという声は少なくない。だが背番号88は山形らしさを大事にしている。
これまで山形一筋で在籍17シーズン目を迎えるDF山田拓巳を筆頭に、山形を支えてきた選手たちを尊重しながらともにチームを支える決意を見せた。
――山形加入後のチームの印象、印象深いエピソードを教えてください。
「真面目なチームだと思いました。どの練習に対しても真剣に、真っ直ぐに取り組んでいる印象がありました。『ぬるい』とか『甘い』という言葉は、あまり見受けられないチームという印象が強かったですね。
フロントスタッフ、強化部、広報の皆さんもしっかりしている人が多いと思う。新鮮でしたね。また鹿島とは違った角度の考えを持った人たちが多くて、すごく楽しいです」
――山田拓巳選手を筆頭に、これまで山形を支えてきたベテラン選手たちとともに、チームをどう引っ張っていきたいですか。
「引っ張っていくことは、何が正しいのか僕は分からない。自然体といいますか、一生懸命やっていればそれを下の子たちも見て何か感じてくれたら、それでいいかなと思っています。
ヤマくんになにか困ったことがあったら、もちろんサポートできればと思います。ヤマくんがすべてを背負う必要もないと思うので、一緒になっていい方向に向かうようになんでも出来ればと思います」
――鹿島での経験、常勝軍団としての経験をどう還元しますか。
「(鹿島の色を)あまり入れすぎてしまうと山形の良さがなくなっちゃって、鹿島の色を全部入れる必要はないと思います。チームが困ったときに『鹿島のときはこうだったよ』と言えればいいと思っています」
――鹿島と山形を比較して、優れている部分や伸ばさなくてはいけない部分があれば教えてください。
「なんだろうな。逆に鹿島がやったほうがいいと思うことが多いですね(笑)。そこはあまり比較できないと思いますね。(チームの)色というか、どちらもそれぞれのカラーがあって良さがあると思う。どちらがというのは言えないと思います」
――選手としてキャリア初の移籍、キャリア初の昇格争いと、経験したことがない挑戦をしています。このチームでどういう存在になりたいですか。
「僕じゃなきゃできないところにフォーカスしたいと思います。そうじゃなかったら別の選手でもいいかなという。代わりになるような選手がやればいいと思います。
ピッチ内外にかかわらず、さっき言ったようなオリジナル性じゃないですけど、人と違った視点からいろいろチャレンジできればと思います」
――プレーでいえばチャンスメイクなどでしょうか。
「プレー面でいえばそうですね。チームが困っているときに助けられるような選手になりたいです」
勝利を呼ぶ男がJ1復帰へと導く
山形加入後に土居はすぐに結果を出した。個人としてはリーグ戦11試合4得点1アシストと攻撃をけん引し、チームは9勝1分1敗と勝利を呼び込んでいる。そして第30節から第35節まで破竹の6連勝と、現在勝点57で7位の山形は、J1昇格プレーオフ(PO)圏内6位仙台と勝点差1に付けて猛追している。
10季ぶりのJ1復帰に向けて、常勝鹿島に数々のタイトルをもたらしてきた男の活躍に、多くの期待が集まっている。
――初めてのJ2で加入後10試合4得点1アシスト(現在10月20日現在、11試合4得点1アシスト)。すぐにアジャストできた理由を教えてください。
「何ですかね難しいな。(逆に)なぜでしょうか(笑)。僕が合わせているというより、みんなに合わせてもらっているところだと思います」
――加入後8勝1分1敗、とチームは5連勝(現在10月20日現在、9勝1分1敗で6連勝中)です。
「雰囲気がいいと思います。みんな明るく、ロッカーでもしょうもない話をしていますし、スタッフも含めてお祝いごとでみんな一つになって喜んでいます。そういう小さなことからいい雰囲気、いい循環が生まれていい流れにつながっていると思います」
――昇格争いとタイトル争いに違いはありますか。
「(チームが)目指すものは一緒だと思います。『目標に向かって進んでいく』という意味ではそんなに大きな差はないと思います」
――山形は鹿島に公式戦で1度も勝利していません。来季J1に昇格した場合、鹿島と対戦する機会があればサポーターは初勝利を渇望すると思います。
「まず戦えるように現状を頑張らないといけません。もし戦えたとしたら楽しみですね。どうやって倒せるか。自分の力で変えられたらと思います」
――残り試合、J1昇格POに向けての意気込みをお聞かせください。
「POといってもまだリーグ戦は残っています。1試合、1試合気の抜けない試合が続きます。僕らはまだPO圏内にも入っていませんし、入ってからもきっと気が抜けないと思う。
やり方を変えるとか、気持ちを緩めるとか、残り4試合で積み上げてきたものを全員で目の前の敵にぶつけるだけだと思っています。その準備をしっかりして、みんなで勝ってPOを迎えられるように、それを続けるだけだと思っています」
取材後に「表情も雰囲気も柔らかくなりましたね」と伝えると、土居は「ストレスや、いろんなものから解放されたからだと思います」とほほ笑んでいた。常に勝利を求められる王者から、J1復帰を目指す挑戦者として戦う背番号88はサッカーを純粋に楽しんでいるよう見えた。逆転J1昇格PO進出を目指す山形を、故郷に帰還した土居が戻るべき頂きへと導いてみせる。