「赤鬼」の異名を誇った強打者、ボブ・ホーナーさんが死去した。68歳だった。

1987年のシーズン途中にヤクルト入りし、初出場から4試合で6本塁打を放つなど衝撃的な活躍を見せ、「ホーナー旋風」と呼ばれた。スポーツ報知ではヤクルトでホーナーさんやラミレス、ペタジーニといった球史に残る助っ人獲得に尽力した国際スカウト・中島国章さん(故人)の証言による連載「ホーナー旋風の真実」を全5回にわたって再録する。第4回は「過熱報道に苦悩、メディアとの戦い」。

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 ホーナーは日本滞在中、セの5球団以外とも戦っていた。相手は過熱報道を繰り広げるメディアだった。

 1987年7月1日、神宮での巨人戦。ホーナーは吐き気と頭痛を訴え、2回途中で退場し、球場近くにある慶応病院へ直行した。通訳と広報も兼務してサポートした中島国章は回想する。

 「木によじ登って、写真を撮るカメラマンもいた。病院からしたら一般の患者もいるわけだし『けしからん』となる。騒動を聞いて、ホーナーは『俺が悪いのかな』と思うじゃん。メディアとの確執はそういうところから始まったんだ」

 幡ケ谷のマンションの地下駐車場には、カメラマンが張り込んだ。

レストランへ行くと、誰と何を食べたかまで突き止められた。

 「ホーナーはもう、うんざりしていたね。その分、僕が何とか守ってあげなきゃと思っていた。ホーナーはお酒が好きだし、真っすぐ帰宅したくないから『飲みに行こう』となる。朝まで一緒にいなきゃいけない。でも、これも仕事だから」

 10日後の7月11日、後楽園での巨人戦。ホーナーの左腰に激痛が走った。6回1死一塁、水野の初球内角カーブを強振した際にひねったのだ。診断は「腰椎捻挫で全治1週間」。それから9試合に欠場し、ファン投票で三塁手のトップだった球宴も辞退した。各紙の論調は厳しくなった。

 「疲れがピークだったし、腰痛はしょうがない。

それ以降はだましだましだった。練習に顔を出さず、トレーナー室で横になっていることが多くなった。特別待遇ですね。でもここで怒られて帰国されたら、元も子もない。練習をサボっているとみんな言うけど、メジャーでは試合で結果を残せばOKだから。でも日本だと『練習に一生懸命=いい子』なんだよね」

 当時、報知新聞でヤクルト番だった若菜泉は証言する。

 「試合前練習が終わってベンチに座っていると、僕も英語が堪能じゃないけど、少し話しかけたいじゃないですか。でも常に『話しかけられたくない』という空気を発していましたね」

 さらには日本人投手を優遇するかのようなストライクゾーンの判定も、いら立ちを増幅させる要因となった。

 再び中島は振り返る。

 「ストライクゾーンもあの頃はひどくてね。外国人打者のように力がある者には、差し引いてあげないと、日本の投手がかわいそうという感じだった。最近は審判のレベルも上がって、きちんとしているけどね」

 だがホーナーは消化試合にもかかわらず、最終戦まで出場し、全力疾走した。

ヤクルトは2年連続最下位を脱し、4位へ浮上。観客は前年の179万人から222万人へ24%も増えた。93試合で、放ったアーチは31発。規定打席不足で30本塁打以上は当時、セ・リーグ史上初の“偉業”だった。(加藤弘士)=敬称略=

 <ボブ・ホーナー>1957年8月6日、米カンザス州生まれ。アリゾナ州立大では76、78年と2度来日。78年には東海大などと試合を行い、6戦6発を放つ。同年のMLBドラフトでは全選手中1位でブレーブスに指名され、プロ1年目に23本塁打で新人王獲得。87年にはヤクルトに入団し、93試合に出場して打率3割2分7厘、31本塁打、73打点。88年にはカージナルスに入団してメジャー復帰も、左肩痛のため引退。MLBでの10年間の通算成績は1020試合に出場、打率2割7分7厘、218本塁打、685打点。

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