3日に一周忌を迎えた“ミスタープロ野球長嶋茂雄さん。今なお鮮烈なその記憶を、スポーツ報知では「ミスターの世界」と題した連載で振り返る。

第4回は、1992年から2000年までの監督在任中、広報担当を務めていた香坂英典氏(68)が、00年2月の宮崎キャンプでの背番号3の復活劇、松井秀喜氏との師弟関係、ミスターのファンに対する思いなどを回想する。(取材・構成=秋本 正己)=敬称略=

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 香坂は、監督付の小俣進に比べて長嶋監督のそばにつきっきりだったわけではないが、「見ていればわかる」という小俣の一言は胸に残る。

 ある日の東京ドームでの試合。劣勢のまま進んだが、最終回であと1本出れば逆転というところまで相手を追い詰めた。試合終了後、いつもなら報道陣に対応するためすぐベンチ裏へ下がる長嶋監督が、その日に限ってグラウンドコートのポケットに手を突っ込んだままフィールドへ一歩、出てスタンドを見渡した。「お客さん残っていたな。まあ、満足したろ」とつぶやいて会見場に向かった姿が忘れられないという。「それを聞いて、えっと思った。我々の世界で負けて笑うのは常識的ではないけれど、長嶋さんの言葉を聞いて『そうか、そういうことなんだ』と実像を感じた。会見では口を真一文字にして厳しい表情で淡々と振り返っている。勝負に負けたとマスコミに対応している姿のちょっと前は、微笑ましい表情で『お客さんが残っていた』という言葉を実際に聞いていたから。そういう人なんだなと。

私にとっては象徴的な場面だった」。長嶋茂雄の実像を見た気がした。

 「きょうはどんなイベントがあるんだ?」と長嶋監督に問われたことも多々あった。指揮官に復帰した93年はサッカーのJリーグが開幕した年。大相撲では若貴兄弟の活躍で史上空前の相撲ブームが起きていた。世間の目は野球以外にも向くようになってミスターは危機感を抱いていた。宮崎キャンプでの背番号3の披露。「勝つ! 勝つ! 勝つ!」と選手を鼓舞し、「国民的行事」と名付けた94年セ・リーグ最終戦の中日との「10・8」決戦。松井秀喜とのマンツーマンの素振りも巨人のみならず、野球界を盛り上げるためにやってきたことだったと香坂は思う。「話題がなかったら巨人で作るという気持ちがあった。『巨人だから、(新聞の)原稿を空けるわけにはいかない』と考えていたのが当たり前だった。そういうことを少しずつ重ねて、私たちも意識が変わった」。

ミスターは直接、伝えてくれたわけではなかったが、その背中がいろいろなことを教えてくれた。

 「後光が差していた」と香坂が振り返るのは中大1年の東都大学野球リーグ戦。ベンチに入れず、神宮のロッカールームでメンバーの荷物番をしていると「カチ、カチ」とスパイクの音が聞こえてきた。試合中で誰も来ないはずだが、目の前のトイレのドアの上からオレンジの帽子のポッチが見えた。どこの大学の選手かと思っていると、開いた扉から見えた背番号は「90」。ヤクルト戦を控えていた長嶋監督だった。

 「キミはどこの学生だ」

 「中央です」

 「中央、強いじゃないか」

 「長嶋さん、頑張ってください」

 「ハイ!」

 香坂と長嶋茂雄との初めての出会い、会話だった。

 数年後。同じユニホームを着る幸運に恵まれた。香坂の少年時代はONの全盛期。誰もが王の一本足打法、長嶋のランニングスローをマネしていた。「小学生の時のワクワクするようなときめきがあったからこそ、仕事をする上で長嶋さんに出会えた運もあると思う。

長嶋さんを見て感じることで教わったことがたくさんあった。それが自分の財産。長嶋さんは自分を何倍にも成長させてくれた。人生のお手本です」

 〇…香坂氏は22年から社会人野球クラブチームの全府中倶楽部でコーチを務めている。「野球を好きなヤツがいっぱいいて、野球の原点、チームワークを肌で感じられた」と充実した日々を過ごしている。巨人では指導歴はなかったが、プロで培ったノウハウ、知識を選手に伝授。「巨人にいたコーチが大変だったのがわかる」と苦心しながら選手とともに都市対抗、全日本クラブ選手権出場を目指す。

 ◆香坂 英典(こうさか・ひでのり)1957年10月19日、東京都生まれ。68歳。川越工から中大を経て1979年ドラフト外で巨人に入団。現役5年間で1軍通算成績は8試合1勝0敗。引退後は打撃投手兼スコアラー、広報部、ファンサービス部、編成調査室、ファン事業部長などを歴任して2020年に退団。

現在は社会人野球クラブチームの全府中野球倶楽部でコーチを務める。

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