関節技の鬼 藤原喜明のプロレス人生(22)

(連載21:「藤原組」でのギャラ下げ交渉と解散危機 船木誠勝や鈴木みのるらの退団は「ホッとした」>>)

 プロレスラー藤原喜明はサラリーマンを経て、23歳で旗揚げ間もない新日本プロレスに入門。アントニオ猪木、カール・ゴッチの薫陶(くんとう)を受け、道場で関節技の技術を磨き、新日本プロレス最強伝説の礎を築いた。

 そんな藤原が激動の人生を振り返る連載の第22回は、新日本プロレスへの復帰とアントニオ猪木との一騎打ちについて語った。

【プロレス】藤原喜明はアントニオ猪木との最後の一騎打ちに「あ...の画像はこちら >>

【支援が打ち切られた藤原組】

 1993年1月。船木誠勝、鈴木みのるらの退団で解散の危機に立たされた藤原組だったが、辛うじて団体は存続した。しかし、旗揚げから支援を受けてきた大手眼鏡チェーン店「メガネスーパー」の創業者で、プロレス団体「SWS」を設立した田中八郎から、支援の打ち切りを通告された。

「いろいろあったらしいんだな。田中社長から『打ち切ります』って言われたよ。あそこまで支援してくれたんだから、社長には感謝しかない。俺は『わかりました』って受け入れて、事務所も移して会社の名前も『藤原組』から『藤原ファミリー』に変えてな。藤原組は俺が全部やるようになった」

 1990年9月に旗揚げしたSWSは、1992年6月19日の長崎国際体育館での興行を最後に、団体としての活動を停止していた。SWSの終焉は、田中にとってプロレス界との決別を意味しており、藤原組への支援打ち切りもこの流れの延長線上にあった。

 存続を決めた藤原組だったが、資金面では過酷な状況に追い込まれた。所属選手も石川雄規と複数の練習生しかおらず、運営が厳しいことは明らかだった。そんな時、藤原に声をかけた団体があった。

かつて所属した、新日本プロレスだった。

「誰だったかは忘れたけど、『リングに上がってくれないか?』ってオファーがあったんだよ」

【「猪木さんに命預けます!」】

 藤原にとって、"プロレス人生の故郷"とも言える新日本への帰還。1989年3月以来となる4年ぶりの復帰は、4月6日の両国国技館大会で明らかになった。

 師匠のアントニオ猪木がリングインし、ファンにこう訴えた。

「かつて多くの選手、私の弟子、選手が育ち、そして外へ旅立ってまいりました。そして、ひと回りもふた回りも大きくなって、再びこの新日本プロレスに帰ってまいります。姿三四郎の言葉にあります。『修業とは出直しの連続なり』」

 そして「オーイ! 出てこい!」と呼び込むと、藤原のテーマソング『ワルキューレの騎行』が鳴り響いた。スーツ姿で藤原が登場するビッグサプライズに、国技館は大歓声。リングに上がった藤原は、猪木と両手で握手し抱擁した。

 マイクを持った藤原は、「藤原でございます。猪木さんに命預けます!」と宣言し、5月3日の福岡ドーム参戦を表明した。大きなインパクトを残した新日本への帰還宣言。

あのセリフは、事前に考えていたという。

「できるだけ短く、強烈なことを言いたかった。リングに上る前にちょっと考えて、『猪木さんに命預けます』って浮かんだんだ。とにかく、あんまり長くタラタラ言うのは嫌だったからな」

 藤原は、第一次UWFが経営に行き詰まった1985年12月も新日本へ復帰している。それから7年あまり。同じように古巣へ帰還することになった。

「多少の屈辱感は感じたよ。離婚した女とまた暮らすようなことだからな。ただあの時は、別のところよりも猪木さんのところに戻ったほうがいいのかなと思ったんだよ」

 両国国技館でのサプライズの翌月、5月3日の福岡ドームでの馳浩戦から新日本に本格参戦した。当時の新日本は、橋本真也、武藤敬司、蝶野正洋の"闘魂三銃士"を中心に据えていた。新生UWFに移籍する4年前と比べて、新日本の変化を感じたという。

「あの3人を一生懸命持ち上げていたけど、俺が思うに、あの頃から新日本はダメになったような気がする。

本人に聞いたわけじゃないけど、たぶん猪木さんもそう思っていたんじゃないかな」

【猪木との一騎打ちは「やっておかないと」】

 藤原は、8月2日から両国国技館で7連戦となった真夏の最強決定戦「第3回G1クライマックス」に参戦した。この年は日本人選手16人によるトーナメントで、藤原は1回戦で、大会を制した藤波辰爾に敗れた。

 1994年6月1日には、仙台市体育館で橋本のIWGPヘビー級王座に挑戦し敗れた。しかし、この年も「G1クライマックス」に出場し、武藤と公式リーグ戦で対戦し勝利した。"闘魂三銃士"との対戦で、藤原が将来を期待できた選手はいたのだろうか。その問いに、ひと言で答えた。

「そんなことは、言えない」

 新日本へ参戦すると同時に「藤原組」での自主興行を開催した。1993年6月1日には後楽園ホールで、空中正三(ミスター空中)の一周忌追悼興行を開催。さらに、この年の12月5日の後楽園ホール大会では、翌年の1月4日に天龍源一郎との初の一騎打ちを控えた猪木が登場し、石川と公開スパーリングを行なった。

 猪木とは、1994年4月4日に新日本の広島グリーンアリーナ大会で、石川と組んでタッグ(猪木のパートナーは馳)で対戦した。猪木はその約1カ月前に、近い将来の引退を表明しており、5月からは引退へのカウントダウンとなる「INOKI FINAL COUNT DOWN」を開始。藤原は、その第4弾となる1995年3月19日の愛知県体育館大会で一騎打ちを行なった。

試合は、かつての道場でのスパーリングを思い起こさせる内容で、猪木が藤原を倒した。

「猪木さんのほうから『俺と試合をするか』と言ってきてくれたから、『喜んでお受けいたします』って返事したよ。その時に『あぁ、猪木さんもやめちまうんだなぁ......』と思ったな。最後になるかもしれねぇから、『やっておかないといけない』って思ったよ」

 白熱の内容は、主催した名古屋のプロモーターが絶賛したという。

「いい試合だったってほめられてな。『ヘタな外国人レスラーを呼ぶんだったら、お前に覆面をかぶせたほうがよほどいい』って言ってくれたよ。うるさい人だけど、ハッキリ物を言うほうでな。だから、あの言葉はうれしかったな」

 猪木と最後のシングル対決を行なった1995年は、藤原組の活動が事実上、停止した年でもあった。船木らの退団後に田中みのる(現・稔)、船木勝一(現・FUNAKI)、池田大輔、アレクサンダー大塚、米山サトシ(現・モハメド・ヨネ)らが入団し、それぞれ個性的な選手へと成長したが、11月19日の横浜文化体育館大会を最後に、藤原を除く全選手が退団したのだ。

「石川とか、残った奴らで藤原組をやったけど、そのうちあいつらもやめていったな。なんでやめてったかって? あんまり覚えてねぇな。何か、若いヤツらを洗脳するような変な奴が入ってきたような気もするけど......もう、どうでもいい話だよ」

 たったひとりになった藤原組。

藤原は、新日本だけでなくさまざまな団体に参戦するようになった。そして1996年、全日本プロレスでジャイアント馬場との初対決が実現した。

(敬称略)

つづく

【プロフィール】

藤原喜明(ふじわら・よしあき)

1949年4月27日生まれ、岩手県出身。1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門し、その10日後に藤波辰巳戦でデビュー。カール・ゴッチに師事し、サブミッションレスリングに傾倒したことから「関節技の鬼」として知られる。1991年には藤原組を旗揚げ。現在も現役レスラーとして活躍するほか、俳優やナレーター、声優などでも活動している。陶芸、盆栽、イラストなど特技も多彩。

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