野球の未来を見ていた男~近藤貞雄伝
証言者・平野謙(後編)

 1981年、平野謙はプロ4年目で一軍初昇格を果たし、開幕からおもに代走と守備固めで110試合に出場した。前年オフに中日監督に就任した近藤貞雄が、その強肩と俊足を生かすべく、戦力外になりかけた平野を救った。

「守りだけならセ・リーグ、いや両リーグでもナンバーワンじゃないか。守備範囲は広いし、強肩だし」

 近藤は平野の能力をそう評価し、1981年シーズン後半には10試合以上で「2番・中堅」として先発起用された。その時点での期待の大きさがうかがえる。

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【突然訪れた開幕スタメンのチャンス】

 だが翌1982年、構想では平野は依然として守備・代走要員だった。ところが、オープン戦の途中、中堅のレギュラーを務めるはずだった豊田誠佑(せいすけ)が死球を受け、右手首を骨折。突然巡ってきたチャンスを平野は逃さず、開幕スタメンの「2番・中堅」の座を勝ち取った。

「開幕2番はうれしかったですね。オープン戦はずっと豊田が出ていて、『とりあえず一軍で頑張ろう』という気持ちでやっていました。ただ、カープとの開幕戦の1打席目で自打球が右膝に当たっちゃって......」

 激痛に耐えて三振で打席を終え、守備に就いたが痛みは治まらなかった。3アウトになってベンチに戻り、自ら交代を願い出て、ベンチ裏でアイシングしていた時のことだ。星野仙一がやって来て、何かと思えばいきなり怒鳴られた。

「『てめえ、何考えとんだ! 休んでる間に代わりのヤツが打ったらどうするんだ!』って言われて。やかましいなと思って、むかついたけど、よく考えたら星野さんの言うとおりで。

自分には実績がないわけだから休んでる場合じゃない。右膝に自転車のチューブを巻いて、『いけます』ってコーチに言って、次の日も使ってもらえました。で、ホームラン打ったんですよ」

 翌日の阪神戦で5打数4安打と打ちまくり、7回の第4打席ではプロ初本塁打となる同点3ランを放った。この出来事を通して、平野は「多少のケガなら隠してでも試合に出るものだ」と思い知らされた。

「今みたいに『痛い』と言ってすぐ交代して、治ったらまたすぐ試合に出られる時代じゃなかったですからね。レギュラーは『自分のポジションは絶対に誰にも渡さない』という世界でした。ピッチャーが完投すれば、出場した9人だけで試合を終えることも珍しくなかった。だから、そんな時代に僕みたいな選手を残して使ってくれた近藤さんには、いくら感謝してもしきれないんです」

 スタメンは打力を優先し、多少守備に不安があっても目をつぶる。味方がリードしたら、後半は内外野を問わず守備固めを投入し、抑え投手で逃げきる。今では当たり前となった戦い方だが、当時は極めて先進的で、だからこそ近藤は平野のような選手を生かした。

【ユニフォームを着たら責任を持て】

 その平野にプロとしての自覚やレギュラーの心得を教えたのはベテランの星野だったが、監督の近藤からは、どのような指導を受けたのか。

「指導というより、近藤さんの言葉がありがたかった。チームの状態が悪い時に全体ミーティングにたまに来るんだけど、その時に言うわけです。

『ユニフォームを脱いだら、別に門限も何も関係ない。だけど、ユニフォームを着たら責任を持ってやれよ。おまえらは野球やってお金をもらってるんだから、ちゃんと仕事ができるような状態だけは整えろよ。それができないと問題になる』と。この近藤さんの言葉は、メリハリっていうところで、僕にはすごくありがたかった」

 2番に定着した平野は、この年、リーグ最多の51犠打を記録。打率.350、出塁率.418を誇る田尾安志を確実に二塁へ送り、ケン・モッカ、谷沢健一、大島康徳の中軸へとつないだ。

 一軍で生き残る武器を身につけるため、平野はキャンプからバント練習に集中的に取り組んでいた。スイッチヒッターへ転向した当初は、慣れない左打席で思うようにバントを決められないことも多かった。それでも試行錯誤を重ね、自分なりに工夫を積み重ねていった。

「みんなが帰ったあと、ひとりでマシン相手にずっと練習していました。誰も教えてくれなかったから、すべて我流です。それで試合になると、近藤さんが『足があるんだから、ただ送るだけじゃもったいない。

とりあえずワンストライクまではセーフティーをやれ』と。決まればそれでいいし、たとえファウルになっても、そのあとに送りバントを決めればいいということで」

 レギュラー1年目ということもあり、バントのサインを見間違えることもあった。優勝へのマジック7で迎えた10月7日の甲子園での阪神戦。初回に先頭の田尾が四球で出塁し、2番の平野が三塁ベースコーチのサインを見ると"ヒットエンドラン"。珍しいなと思いながら打ちにいくと、2ラン本塁打になった。だが一塁を回る時、コーチから「バントだぞ」と言われた。

「みんながベンチ前で迎えてくれたんですけど、サインミスしたから素直に喜べずにしぶい顔をしていたら、星野さんに頭をはじかれて『バカヤロー、打ったんだから喜べ!』と言われて......。それ以上に救われたのが、近藤さんの言葉です。『あのサイン間違いのホームランで優勝を確信した。明らかなミスが成功になった。そういうことが起きる時、チームは優勝するんだ』と」

【優勝のかかった大一番の試合前にビール】

 優勝の行方は10月18日の最終戦、横浜スタジアムで行なわれる大洋(現・DeNA)戦にかかっていた。勝つか引き分ければ中日が優勝、敗れれば巨人が優勝という大一番。近藤が試合前、食堂にビールを用意させ、選手たちの前でこう言い放った。

「みんな、ここまで来て緊張するなとは言わん。酒でもやって頑張ってくれ」

 平野が振り返る。

「小瓶のビールが用意されていてね。それで、『じゃあ飲もうか』と思って1本空けてベンチに戻り、『さあ、やるぞ』となったら、誰も飲んでないんです。『えっ、オレだけ?』って(笑)」

 この試合は、セ・リーグ首位打者争いの行方も注目されていた。打率.3501の田尾安志は、打率.351でトップに立つ大洋・長崎慶一(81年から87年まで啓二)を追っていた。しかし、大洋・関根潤三監督は長崎を欠場させ、田尾には5打席連続敬遠。結局、首位打者のタイトルは長崎の手に渡った。その一方で、1番打者がそれだけ出塁した中日は8対0で勝ち、近藤は宙に舞った。

 この年、平野は125試合に出場して打率.288、4本塁打、33打点、チーム最多の20盗塁という成績。リーグ最多の14補殺を記録するなど高い守備力も発揮し、ダイヤモンドクラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)を受賞。「守走」で生き残った男が、「攻守走」すべてで優勝に貢献した。

 直後の日本シリーズは西武に2勝4敗で敗退。「地力の違い」を感じた平野だったが、翌1983年、背番号が3に変わるも「遊ぶ時に遊び過ぎて」と成績は下降。チームも故障者続出で5位に転落し、近藤は退任した。

【近藤貞雄と新庄剛志の共通点】

 その後、平野は中日のレギュラーに定着した。しかし星野が監督に就任した1987年、"いざこざ"がもとで、平野は西武へ移籍。常勝軍団の一員としてプレーするなか、近藤は日本ハムの監督に就任した。

「グラウンドで近藤さんにあいさつすると、『おい、あんまりいじめるなよ。いい加減にしろよ』って、いつも冗談を言う。当時、西武が強かったからね。それはそれで『頑張ってるな』っていうことの裏返しだと思って、喜んで話していました。もちろん、長話はできないけど、近藤さんと話すのが楽しくて。なんと言っても、僕の長い野球人生の生みの親で、大好きな野球人のひとりでしたから」

 1994年にロッテへ移籍した平野は、1996年限りで現役を引退。

19年間の選手生活を終えると、NPB3球団をはじめ、社会人野球、韓国球界、独立リーグで指導者として経験を積み、現在はクラブチームの監督を務めている。指導者として長年現場に立ってきた平野から見て、近藤の野球が今につながるところはあるだろうか。

「ドラゴンズの監督時代、近藤さんだけがまったく違う野球をやっていたわけです。もし今、近藤さんが監督をやったとしても、きっと一番目立って、一番ユニークな野球をすると思います。いろいろなタイプの選手を使い、ファームの若手にもどんどんチャンスを与えて、その力を生かすでしょうね。

 そういう意味では、やり方は違いますけど、ファイターズの新庄(剛志)監督は似ていますね。1年目は選手をたくさん起用して、3年目で優勝争いができるチームになりましたからね。僕から見ても、本当におもしろい野球をやっていると思います」

(文中敬称略)

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