中谷の左目を破壊する一撃を見舞った井上は、そこから一気に勝利を手繰り寄せた(C)産経新聞社

退屈感は微塵もなかった技術戦

 どちらかが強烈な一撃を食らえば、終わる――。そんな張り詰めた緊張感が漂うリングの中で、絶対王者がニヤリと笑う姿が印象的だった。

 5月2日、東京ドームで日本ボクシング史に残る「伝説」が生まれた。

ボクシングのスーパーバンタム級の4団体統一王者の井上尚弥(大橋)は、元3階級制覇王者の中谷潤人(M.T)を判定(3-0)で下し、王座を防衛。世界戦の連勝記録を「28」に延ばした。

【画像】世界興奮!井上尚弥vs中谷潤人が繰り広げた珠玉の攻防を厳選ショットで見る

 ド派手なKOシーンはもちろん、どちらかが倒れるダウンシーンもなかった。それでも生観戦に訪れた5万5000人の観客は、井上と中谷が繰り広げた緊迫の攻防を固唾をのんで見守った。だからこそ、試合中のドーム内の雰囲気は異様だった。

 12ラウンドを通して続いた、強打をもらえば終わってしまうような緊迫の殴り合い。特に序盤から中盤にかけては、互いに繰り出した強いパンチをことごとく交わされ、どうすれば打開できるかを模索し合う頭脳戦のような展開が続いた。

 この戦いを振り返った井上は「体力というか、脳のスタミナがすごく削られた」と漏らした。試合中も「気を抜くなよ」という真吾トレーナーを中心とした自陣営の言葉に耳を傾けていたモンスターは、いつも以上にクレバーに戦った。そこにはトレーニング段階から「どんなことがあろうが、自分がしっかりと勝つ」と勝利に徹した姿があった。

 あえて選んだ茨の道だった。そもそも中谷は「相性は最悪。

逆にあっちは自分みたいなタイプやりやすいと思う」と位置付ける相手だった。173cmの長身サウスポーという特異性を持ちながら、リーチ174センチというサイズ差を活かしてパンチアングルを作り出す挑戦者は、百戦錬磨の井上からしても脅威だったに違いない。

 そうした中で、真吾トレーナーとともに、徹底してイメージは膨らませた。来る日も重ねた研究の中で、「プラン通り。中谷選手がそう出てくるなら今日の戦い方」と言い切れるまでの自信は身についた。

 ともすれば、玄人好みの試合展開だったのかもしれない。そもそもボクシングIQの高い二人が高度な技術戦を選択し、相手の引き出しを探り合うようなパンチの応酬が随所で続いた。

 だが、退屈感は微塵もなかった。おそらくこの試合を観た大半の人々がそれに同意するはずである。リング上で「『今夜勝つのは僕です』という戦い」と評した井上が「お互いに打って、外して、という技術戦を楽しんでいるという感覚」を抱いた攻防は、真剣で切り合うような迫力があった。そこには「初めて試合を見に来るファンがとても多いと思う。だから、ボクシングの面白さ、素晴らしさ、トップ選手同士が戦えば自ずと盛り上がる試合になるんだというのを見せたい」と誓ったモンスターのファイターとしての矜持が滲み出た。

井上尚弥がこだわった勝利の追求 「相性最悪」と認める中谷潤人との苦闘の裏にあった怪物の“計算”「僕のボクシング人生はここがゴールではない」

絶対王者としての意地を見せつけ、4本のベルトを守り抜いた井上。その強さはやはり異次元だった(C)Takamoto TOKUHARA/CoCoKARAnext

「まったく違う重圧」を背負った井上の次なる構想は――

 井上も苦しい局面ないわけではなかった。

 1ラウンド目から中間距離を保ちながらカウンターを狙い続けた中谷は「学ぶ力が強い」と虎視眈々と王者の隙に自慢の左を打ち込む機会を伺った。相手の打ち終わりを狙い続ける28歳の戦いぶりは、他でもない井上が「(中谷は)高度な技術も備えていた」と驚く水準だった。

 ただ、互いに有効打がないまま中盤までもつれ込む試合展開の中でも、井上、そして陣営にも焦りの色はなかった。「想定内でした」という本人の言葉からもそれは明白だ。実際、1ラウンドから4ラウンド目まではジャッジ全員がポイントを王者側につけていた。

 自ら優位に立ったポイント状況を「陣営と確認しながら戦っていた」という井上は、「8、9、10ラウンド辺りは少し捨ててもいいのかな」と判断。「自分がポイントを取るというか、少しポイントを譲ってもいいかなと思って戦っていた」と冷静に勝負所を見極めていた。

 それは終始、「一発は気を付けろよ」とやはり冷静に指示を送っていた真吾トレーナーも同様だった。「中谷選手はパンチが当てられなかった。こちらが空間を支配していた」とポイント勝負になるなら負けないというような自負はあった。

 もっとも、結果的に“勝負”を決定的なものにしたのは、井上の一撃だった。

 11回、左と右のワンツーを打ち終わった刹那に繰り出した左のアッパーが中谷の左目を破壊した。常に顔面周りで堅く固められていた右ガードがわずかに崩れた一瞬“隙を、見逃さなかった。

 下からスッと伸び上がった強烈な一撃をもろに受けた中谷は、左目をあけていられなくなり、趨勢はモンスターに傾いた。この時、相手に生じた“弱点”を徹底的に突くように、右からの攻撃を集中させた井上のたたずまいは、まさに勝負師。無慈悲だが、世界の名だたる猛者たちを相手にしてきたからこその強さがあった。

「自分も33歳になって、日本人でランキングの下からあがってきた選手と戦うというのは負けられない気持ちが今までの試合とは違う。重圧や、そういう雰囲気があったので、すごく自分のなかで張り詰めた5月2日までだった。ひとまず勝ててホッとしてます」

 試合後、本音とも取れる言葉を漏らした井上の目尻には中谷のパンチによって出来たであろう小さなアザがいくつかあった。ここ数戦は、ほとんど無傷と言えるような顔つきで勝利会見に出てきていただけに、いかに激闘であったかを物語る傷にも見えた。

「まったく違う重圧」を背負った中谷との激闘を制し、早くも世間は次戦に目を向けている。一部報道では、4階級制覇を目指す3団体統一スーパーフライ級王者ジェシー・ロドリゲス(米国)との“ドリームマッチ構想”も伝えられた。

 4月6日のTikTokライブ配信内で、「中谷戦と、もうひとつやりたいなと思っている試合がある」と語った相手が、新進気鋭の26歳ではないかと予測する声は飛び交っていた。ただ、「今、自分の口から言えることはない」と言う井上は、「僕の中では白紙です」と多くは語らなかった。

 最強挑戦者を高度な技術戦の末に破り、また一つ価値を高めた井上。「僕のボクシング人生はここがゴールではない」という“モンスター伝説”は、まだまだ終わりは見えない。

[取材/文:羽澄凜太郎]

編集部おすすめ