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「ド」が小さいカップヌードルのロゴ
萬平のモデルは日清食品創業者の安藤百福、まんぷくラーメンとまんぷくヌードルはそれぞれ現実のチキンラーメン、カップヌードルに相当する。1958年発売のチキンラーメンのデザインは、安藤が友人の画家・竹内仙之助が依頼したものだという。また、1971年9月に発売されたカップヌードルのパッケージデザインは、前年の大阪万博のシンボルマークを手がけたグラフィックデザイナーの大高猛によるものだ。
大高は安藤から直接、商品の説明を受けると、その後もたびたび研究所を訪れては試食し(時には味の改良に意見することもあったらしい)、デザインイメージを固めていったという。安藤には、斬新さ、国際性、飽きの来ないことなど、いくつかの条件をつけられていた。大高は見事にこれに応える。ロゴタイプ、そしてグラフィックの順で案を提示し、いずれもすんなりと採用された。ロゴ制作で念頭に置かれたのは、コカ・コーラに匹敵するようなインパクトがあり、しかもスタンダードになりうるものであった。この目標どおり、カップヌードルのパッケージデザインは発売以来、ロゴもグラフィックも現在まで基本的なデザインは一切変更されていない。
ちなみに、カップヌードルという商品名は、アメリカ日清(1970年設立)から提案されたもので、そのインターナショナルで新しいイメージが安藤の琴線に触れ、採用が決まったという。ただ、ヌードルという言葉は当時まだ日本人にはなじみが薄かった。
極寒の軽井沢でカップヌードルが活躍
パッケージデザインにしてもそうだが、開発中から発売当初のカップヌードルについてはさまざまなエピソードが伝えられている。たとえば、長野県軽井沢の企業保養所に連合赤軍のメンバーが人質をとって立て籠もった1972年2月のあさま山荘事件では、現場に出動した警視庁機動隊に発売まもないカップヌードルが給食され、その様子が長時間にわたったテレビ中継中に流されたおかげで商品の知名度が高まったともいわれる。
あさま山荘事件で機動隊にカップヌードルが支給されたのには、それなりの理由がある。まず、事件現場となったのが、厳冬の軽井沢だったこと。そして、発売当初のカップヌードルが、チキンラーメンなど既存の袋入りインスタントラーメンとは異なり、特殊な流通ルートをとらざるをえなかったことがあげられる。
一つ目の現場環境については、事件発生時、警察庁の警備幕僚長として現場で指揮にあたった佐々淳行の著書『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文春文庫)に次のようなエピソードが紹介されている。
事件現場では、夜には零下16度まで下がり、地元住民の好意で炊き出しのカレーライスがふるまわれたものの、すぐにカチカチに凍ってしまったという。佐々はこうした事態を受け、警視庁からキッチン・カーを派遣させて山上の機動隊員たちに温食給与することが喫緊の課題だと判断。その際、キッチン・カーでは湯茶のサービスとともに警備夜食としてカップヌードルを定価100円のところを半額の50円で警視庁で購入し、現場で50円の廉価で振る舞うことにした。
これに対して、人質救出作戦に警視庁とともに参加していた各県警から「警視庁はけしからん、自分たちだけ温かいものを食べていてほかの県警には分けてやらない」と苦情が出た。これはまずいと思った佐々は警視庁の庶務担当者を呼ぶと、キッチン・カーを2台に増やし、ほかの県警や新聞記者にも食べさせてやるよう指示したという。
一般的な食品流通ルートを通せなかったカップヌードル
先に引用した日経デザイン編『メイド・イン・ジャパンの時代』によれば、日清食品はあさま山荘事件《当時すでに、警視庁に食料品や日用品などを納入していた業者を通じて、カップヌードルを支給して》いた。ここには、理由の二つ目にあげたとおり、発売当初のカップヌードルは特殊な流通ルートをとらざるをえなかったという事情がある。
カップヌードルが初めて世間にお目見えしたのは、1971年5月、東京の経団連会館で開かれた発表会だった。このとき試食した人たちの反応はいまひとつであったらしい。マスコミは屋外のレジャーに便利なキワモノ商品という評価だったし、問屋は「袋入りのインスタントラーメンが25円で安売りされている時代に100円は高い」と渋顔を見せた。《結局、後押ししてくれる問屋はなく、注文もこなかった。正規の販売ルートを閉ざされて、仕方なく新しい流通経路を開拓せざるをえなかった》と、安藤百福はのちに述懐している(安藤百福『魔法のラーメン発明物語 私の履歴書』日経ビジネス人文庫)。
発売初日、1971年9月17日にカップヌードルを店頭に並べたのは、スーパーや小売店ではなく、東京・新宿のデパート、伊勢丹だった。続いて銀座の三越や松屋などでも販売が始まる。これと前後して安藤は若手の営業社員にチームを組ませ、通常の食品流通ルート以外への販売を指示していた。そこで社員たちは売り込みのため、デパート、遊園地、鉄道弘済会(キオスク)、官公庁、さらには麻雀店やパチンコ店、旅館のほか、職域販売として警察、消防署、自衛隊を回る。なかでも埼玉県朝霞の陸上自衛隊は真っ先に買ってくれ、演習場でタンク車から湯を注いで隊員らに配布された。
新たな流通経路開拓にあたっては、自動販売機も一役買っている。これは、100円硬貨を投入すると、カップに湯が注がれ、3分経つとヌードルができあがった状態で出てくるというものだ。
そこへ来て起こったのが、あさま山荘事件だった。安藤は自伝で、事件の中継をきっかけに《カップヌードルは火がついたように売れ出し、生産が追いつかなくなった》と書いている(『魔法のラーメン発明物語』)。ただし、食品問屋が扱うようになって一般的な流通に乗るにはもう少し時間がかかった。問屋からカップヌードルがほしいと要望が出たのは、発売から2年以上が経った1973年の暮れだったという(『女性セブン』1983年6月30日号)。
なお、カップヌードルはまず関東で先行発売され、関西で販売開始されたのは、あさま山荘事件のあとの1972年6月であった。
カップヌードルも味わった“敗北”
カップヌードルについて、日清食品は開発段階からすでに「容器付きスナックめんの製造法」と「めんの中間保持」を中心にした2つの実用新案を特許庁に申請していた。先手を打ったのは、チキンラーメン発売の際、数々の係争に巻き込まれた苦い経験を踏まえてのことである。
しかしカップヌードルの発売後には、チキンラーメンのときと同様、他社から類似商品が次々と売り出された。日清食品はその都度、不正競争防止法違反で訴え、製造・販売中止を求める仮処分申請を繰り返すことになる。結局、各メーカーは日清側に実用新案権の使用料を支払うことでカップ入りインスタントめんの製造を開始するにいたった。これについて安藤百福は、《異議申し立ての多いほど、その特許には実力があると思っている。
もっとも、日清食品は必ずしもすべての異議を退けたわけではない。1976年には、ある容器メーカーの申し立てを受けて、特許庁がカップヌードルの容器に関する実用新案権について無効とする審決を下している。日清はこれを不服として東京高裁に無効取り消しを求めて行政訴訟を起こすも、同高裁は1978年、「発案当時の技術水準から見て、実用新案にはあたらない」と訴えを棄却。日清側は上告したが、1980年には最高裁も東京高裁の判決を支持し、実用新案権の無効が確定する(「朝日新聞」1980年2月1日付)。とはいえ、実用新案権そのものはこの前年に期限切れとなっていたうえ、各メーカーとの契約書には、いかなる場合も使用料等は返還しないとの一項が入っていたため、上告棄却による影響はほとんどなかったようだ。
実業家としての安藤百福
「まんぷく」では、萬平の発明家としての側面が強調され、危機が訪れるたびに画期的なアイデアで切り抜けるというふうに描かれてきた。モデルとなった安藤百福についても、日清食品は自社のミュージアムを「安藤百福発明記念館」と名づけるなど、発明家というイメージを前面に押し出している。しかし、安藤百福という人物の本領は、むしろ実業家としての面にこそあったのではないか。
これはけっして安藤を貶めて言うのではない。過去の偉大な発明家、たとえばエジソンにしても、自身の改良した白熱電球を普及させるため、電気供給会社を設立している。ヘンリー・フォードも、自動車の発明者でこそないが、流れ作業で製品を組み立てる大量生産システムを確立し、自動車の普及をうながした。
そもそも台湾に生まれた安藤は両親を早くに亡くすと、祖父母の営む商家で育てられた。学校を卒業して始めたのも、メリヤスの販売だった。この経歴からしても彼は発明家である以前に、商売人であった。その後、ドラマでも描かれたように、彼は何度か逮捕されるなど辛酸をなめつつ、そのたびに新たな事業を立ち上げて復活を遂げてきた。カップヌードルはその事業の集大成とも位置づけられよう。
どこでもお湯さえあれば食べられるカップヌードルは、日本のみならず世界の食文化に画期をもたらした。1995年に阪神・淡路大震災が発生すると、安藤はすぐさま社員による救援隊を組織し、キッチンカーとライトバンに大量の即席めんを積んで被災地へ派遣している。発明を発明のままとどめず、市場を開拓し、また新しい文化の創出や社会貢献にもつなげる。それこそが安藤百福の実業家たるゆえんであり、彼の真骨頂であったはずだ。
(近藤正高)