1940年東京五輪構想と政治記者・田畑初のスクープ
ロサンゼルスオリンピックで必ず勝つとぶち上げた日本水泳チームの総監督・田畑政治は、オリンピックの前哨戦との位置づけでアメリカの有力選手らを招致し、日米対抗水上競技大会を東京の神宮プールで開催した。ロスオリンピック開催の1年前、1931年8月のことである。
しかし田畑はこの結果にけっして満足しない。遠征したほうが2割不利になるので、ロスオリンピックでは逆に日本が不利になる。また、大会2日目からアメリカは強い選手にのみ力を入れ、弱い選手は切り捨てていた。対する日本勢は、若手の活躍が目立つ一方で、先のアムステルダムオリンピックのメダリストの鶴田義行(大東俊介)や高石勝男(斎藤工)らの衰えが目立った。田畑は、問題は1年後の記録だとして、「極論を言えば、50秒を切ったら何人でも連れていく」と断言する。
このころ東京市では、皇紀(日本書紀に記された神武天皇即位を元年とする紀元)2600年にあたる1940年にオリンピックを開催する構想が持ち上がっていた。田畑は体協の名誉会長の嘉納治五郎(役所広司)にともなわれて、東京市長の永田秀次郎(イッセー尾形)からその話を聞くが、目前のロスオリンピックに集中していたせいか、どうもピンとこない様子。だが、関東大震災から立ち直った東京を世界に見せたいという永田市長に賛同し、嘉納は「世界中の人がここ東京にやって来て、人種も思想も超えてスポーツで技を競い合うんだ!」「まさに平和の祭典」とあらためてオリンピックの理念を掲げる。ちなみにこのとき永田と並んで出席した陸上総監督の山本忠興(田中美央)は、もともと早稲田大学の陸上部長であり、アムステルダムオリンピックでは日本選手団長も務めた人物である。山本は早くより東京オリンピック招致を提唱して奔走する一方で、電気工学者としてテレビ研究の草分け的存在でもあった。
東京オリンピック構想に対し、体協会長の岸清一(岩松了)は「カネ、通訳、宿泊施設、交通機関、どれもこれも足りない!」と慎重だった(来年のオリンピックで懸案となっていることと同じだ……)。
満州事変で、田畑の勤務する朝日新聞社内は騒然となる。そのなかで田畑はあいかわらず、ひとりでオリンピックに熱中していたが、同僚の河野一郎(桐谷健太)から「このままでは言論の自由がなくなる」と、新聞社をやめて政界に転身すると明かされ、本業である政治記者の仕事をちゃんとやろうという気になる。そこで会いに行ったのが、アムステルダムオリンピックの際に選手の遠征費の援助をあおいだ高橋是清(萩原健一)である。あのときの御礼にと田畑がオランダみやげの木靴を渡したところ、高橋からその木靴で頭を叩かれながらも(これは萩原のアドリブであったという)、その場に居合わせた政友会総裁の犬養毅(塩見三省)と引き合わされる。犬養が次期内閣を発足するにあたり、高橋は大蔵大臣に抜擢されたと田畑にほのめかした。それを聞いて田畑は慌てて社に電話をかけて伝える。それが、いつものごとく「アレがナニして」などと話はまったく要領を得ず、電話をとった速記係もそのまま書き取ったのだが、これがちゃんと記事になり、田畑が記者になって以来初めてのスクープとなった。
初スクープにはしゃぐ田畑に、上司の緒方竹虎(リリー・フランキー)が見合い写真を渡す。
オリンピック応援歌と5・15事件
オリンピックイヤーである1932年に入ると、田畑は新聞記者としては派遣選手の応援歌の公募、水泳の日本総監督としては選手の選考に熱中する。前者では、応援歌が決まったあと曲を披露するにあたり、犬養の出席を求めた。おりしもこの年3月には、「満州国」が中国・清朝最後の皇帝である溥儀を擁立して成立する。しかし政府は、実質的に日本の傀儡国家であった満州国を承認せず、軍部の不満が高まっていた。犬養は、田畑を相手に、満州問題について平和的解決をめざすと強調し、「いかなる場合も武力に訴えてはならん」「人間同士、話せばわかるんだよ」「いいか、戦争は勝つほうも敗けるほうも苦しい。しかしスポーツは勝っても負けても清々しいものだ」と持論を展開する。しかし最後の言葉に対し田畑は「スポーツは勝たなければなりません」と反論した。社に帰って、彼は記事にするつもりで酒井に口述筆記させるも、やっぱり自分には特ダネはいらないとやめてしまい、オリンピック応援歌の選考に夢中になる。
水泳の総監督としては、口の悪い田畑だけに、相手を傷つけかねない言葉をポンポン口走り、監督の松澤一鶴(皆川猿時)を冷や冷やさせる。若手のホープである小池礼三(前田旺志郎)が伸び悩み、その理由がアムステルダムの金メダリストで先輩の鶴田義行が満鉄就職を機に引退表明して張り合いがなくなったからだと知ると、鶴田を「小池の練習台になってくれ」と電報を打って呼び出すよう指示した(言い方……)。女子のほうも、同じくロサンゼルスで期待がかかり、プレッシャーからスランプに陥っていた前畑秀子(上白石萌歌)に、「そんなんじゃ金メダルとれないぞ」と無神経な言葉をぶつけてしまう(あと気になるのは、田畑が前畑=マエハタのことを「マエバタ」と呼んでいること。自分の姓が「タバタ」と濁るゆえの勘違い?)。
しかしそんな前畑も、合宿先に現れた鶴田を一目見た瞬間、キラキラと目の輝きを取り戻す。というか、これ絶対恋だろ! さらにもう一人、アムステルダムで銅メダルをとった高石勝男は、ロサンゼルスには選手たちを束ねる役として連れてはいくが、選手からは外すという田畑の決定に憤慨する。松澤を相手に「いつから田畑さんはあんなメダルの亡者になったんですか!」と不満を爆発させる高石。怒りのあまり、「そもそもなんやねん、田畑さんって何なの。指導者なの? 本当は泳げるの?」と、ここぞとばかりに田畑の方針、ポジションに疑念を呈す。
当の田畑は、高石がそんな不満を抱いているとはつゆ知らず、ついにロサンゼルスオリンピックの応援歌が完成したので、その発表会に出かける。それは1932年5月15日のことであった。今回のクライマックスでは、この応援歌が披露されるなか、同日に首相官邸で犬養が青年将校に襲撃されるさまが描かれた。
その日、犬養は医者から検診を受け、「いたって健康。あと100年は生きられそうだわい」と豪語する。当時、彼は満77歳となっていた。そこへ銃声が聞こえる。青年将校たちが官邸に乗りこんできたのだ。彼らの前に犬養が立ちふさがり、一人の将校が拳銃を向けて引き金を引くも、弾は出なかった。ここで犬養は部屋に入るよう促し、ひとり座りながら将校たちの話を聞こうとするのだが、「問答無用」と狙撃されてしまう。このあと、発表会で田畑が機嫌よく合唱団を指揮していたところへ緒方がやって来て「クーデターが起こった。発表会は中止だ」と告げた。犬養のために用意された椅子はついに空席のままだった。
犬養は撃たれてもなお残された気力を振り絞り、医者を相手に「いまの若い者をもう一度呼んで来い。……話して、聴かせることがある……」と叫ぶと、その夜、息を引き取った。犬養はこの回のみの登場となったが、物語上きわめて重要な意味を感じた。演じた塩見三省も、病気を得てやせたせいもあってか、犬養によく似せていたと思う。
不穏な空気のなかロスに向けて出発する選手団
劇中では、この様子に応援歌の発表会の様子を挿入しながら、応援歌が歌詞の字幕とともに流された。「君らの腕(かいな)は 君らの脚は 我らが日本の 尊き日本の 腕だ 脚だ!」と、選手たちが日本を代表して活躍することへの期待が高らかに歌われる様子と、犬養が狙撃されるまでの過程を同時進行で追いながら、選手たちが背負った日本とはどんな国なのか、これからどんな方向へと歩んでいくのかと、考えずにはいられなかった。
5・15事件のあと、軍部の力は強まり、朝日新聞社内では新聞はこのまま軍の広報になるとの噂がささやかれていた。田畑は緒方に対し「犬養さんは平和的に解決したいとおっしゃってました。今後、うちの編集方針は?」と訊ねると、「残念だが、これ以上軍部ににらまれたら、つぶされかねない」との言葉が返って来た。軍部の圧力、あるいはテロを恐れてどんどん萎縮していく新聞。それはどこか、いまの日本の状況とも重なり合う。
緒方が「こんなときにオリンピックか」とぼやくと、田畑は「何言ってんですか! こんなときだからこそオリンピックですよ」と言い返した。これに呼応するように、オリンピックの壮行会で挨拶に立った嘉納治五郎が「こんなときだからこそ諸君は、スポーツ大国へと成長した日本の姿を世界に見せなければいけない。
田畑は生まれて初めてオリンピックに参加するのを前に、社内でひとり日本勢の活躍を想像して実況アナウンスする。その様子を酒井菊枝が見ていた。はたして彼女は田畑とどうなるのだろうか。
第28話のラストでは、田畑たち日本水泳陣を乗せた船が出港する(この映像が当時の記録映像のようでいて、ちゃんと阿部サダヲら出演陣が映りこんでいた)。はたして彼らに何が待ち受けているのか。劇中では当時のアメリカにおける日系移民への差別も描かれるようだ。これも日本を含め世界各国で移民が大きな問題となっている現在に通じている。
不穏な空気のなかロスに向けて出発する選手団
「いだてん」では、田畑が水泳にばかり没頭して、政治記者の仕事をあまりしていないように描かれているが、実際のところはそうでもなかったらしい。朝日新聞社の政治部では政友会担当として、犬養毅の私邸に詰めていたという。後輩記者の飯島保の証言(ベースボール・マガジン社編・発行『人間 田畑政治』所収)によれば、今回出てきた犬養内閣に高橋是清が蔵相として入閣するというスクープは、田畑から「高橋」と一言だけささやかれた飯島が、大急ぎで高橋邸まで赴いて確認したうえで得たものだった。つまり田畑は自分の手柄を後輩に譲ったというわけである。
5・15事件に直前に田畑が犬養と面会をしたときにも、飯島を同行させたらしい。このとき犬養は打ち解けた態度で、《中国には昔からの友人も多いので、話し合ってなんとか片づけたいと苦しんでいるんだが、チャンチャンバラバラが上海の方にまで広がってしまい[引用者注:1932年1月に起こった上海事変のこと]、いますぐ、話し合いというわけにはいかない。もう少し静かになるのを待ってなんとか手をうつよりほかはない》との主旨の話をしたという(前掲書)。5・15事件が起こったのは、その数日後のことだった。
5・15事件は、ドラマのなかで緒方竹虎が言っていたようにクーデター事件と呼ぶよりは、集団テロであったとする見方が最近の研究では有力のようだ。ただ、この事件と、それに先立つ1932年2月〜3月の血盟団事件(血盟団という組織の青年により蔵相の井上準之助、三井財閥の團琢磨が暗殺された事件)の裁判を通して、事件の実行者たちの「腐敗堕落した既成の政党政治家、財閥、官僚などの特権階級の打倒」という主張は多くの国民の共感を呼ぶことになる。そうした世論を受けて、2つの事件の被告たちには、求刑にくらべてきわめて寛大な判決が下された(長谷川雄一「血盟団事件と五・一五事件」、筒井清忠編『昭和史講義2』ちくま新書)。不況が深刻化するなか、支配層に対する国民の不満は、テロ事件の当事者たちに対する支持へとつながっていったのである。昭和初期における軍部の台頭には、国民が招いた部分もあったことは強調しておきたい。(近藤正高)
※「いだてん」第28回「走れ大地を」
作:宮藤官九郎
音楽:大友良英
題字:横尾忠則
噺・古今亭志ん生:ビートたけし
タイトルバック画:山口晃
タイトルバック製作:上田大樹
制作統括:訓覇圭、清水拓哉
演出:桑野智宏
※放送は毎週日曜、総合テレビでは午後8時、BSプレミアムでは午後6時、BS4Kでは午前9時から。各話は総合テレビでの放送後、午後9時よりNHKオンデマンドで配信中(ただし現在、一部の回は配信停止中)