日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2020年5月の特集は、今年4月にデビュー40周年を迎えた松田聖子特集。
こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは松田聖子さんの「SWEET MEMORIES ~甘い記憶~」。
1983年のシングルでしたが、こちらは4月1日に配信で発売になった40周年バージョンですね。英語の部分が日本語になっております。今月の前テーマはこの曲です。今月2020年5月の特集は松田聖子。今週は4週目、最終週ですね。色々な曲をお届けしてきましたが、聖子さんというと1980年代のヒット曲がたくさん出てくるわけですが、それだけじゃないんだぞっていうことを、こうやってお話している私が痛感しながら放送しております。
1980年代のリゾートヒロインだったとか、アイドルでありながら女性の生き方を歌ってきた人だとか、女性アイドルの中に主体性という考え方を持ち込んだ人だとか。
1996年4月に発売になりました『あなたに逢いたくて ~Missing You~』。作詞が彼女で、作曲が彼女と小倉良さんの共作ですね。1980年のデビューからずっと所属していたソニーからユニバーサルに移籍した第一弾。この曲の入ったアルバムも移籍第一弾『Vanity Fair』でしたね。1988年の『旅立ちはフリージア』、これがソニー時代の最後のシングルチャート1位だったんですが、『あなたに逢いたくて ~Missing You~』で8年ぶりに一位に復帰しているんですね。『旅立ちはフリージア』は、聖子さんの作詞、作曲はゴダイゴのタケカワユキヒデさんだったんですが、このシングルでは聖子さんが作曲にも加わって一位になっているわけです。
1997年4月発売のシングル『私だけの天使 ~Angel~』。作詞が彼女で、作曲も彼女と小倉良さんの共作。編曲は鳥山雄司さんですね。この頃のアレンジは鳥山雄司さんが多いです。1980年代の大村雅朗さんの後を受け継いだというような存在ですね。この曲の説明は不要だと思うんですが、娘さんへの気持ちを歌ったものです。アルバムは1997年5月に出た『My Story』、"私の話"ですよ。
1970年代のアイドルで代表的なのが山口百恵さん、キャンディーズもそうですが、音楽を離れて自分の人生を選ぶ、家庭に入るということが美談のように語られた時代。家庭もそれに付随させてきたというと語弊はありますが、聖子さんはそれを超えて自分はずっと音楽をやっていくんだ、歌に生きる人間なんだっていうことを音楽の中に歌い込んできた。この曲はそういう例だったと思いますね。去年の5月の特集が西城秀樹さんだったんです。その時にも思ったんですが、この頃のアイドルと呼ばれた人たちのことを、僕も含めた音楽ジャーナリズムはちゃんと捉えてきただろうか? という反省を先週も言いましたが、今週は特にそう思いながら次の曲ですね。1997年12月に発売になった「Gone with the rain」。
1997年12月に発売になった46枚目のシングル『Gone with the rain』ですね。
1999年12月発売になったアルバム『永遠の少女』から、「櫻の園」ですね。作詞が松本隆さんで、作曲が大村雅朗さん。これはもう永遠の松田聖子、不変の松田聖子と言っていいでしょうね。この上品さ、そして優しさ、センチメンタルで温かい、泥臭くない。洋楽的なバラードで、歌謡曲的なあざとさがない。これはもう他の女性には無いスタイル、これをやれば松田聖子になるんだ、何年の歌でも松田聖子になるという一曲でしょうね。これもアルバム曲でシングルにはなっていませんね。このアルバム『永遠の少女』で、松本隆さんとは11年ぶりにタッグを組んだ。
2000年というのは彼女のデビュー20周年でもありますね。その記念シングルがこの曲で50枚目です。作詞が彼女自身ですね、歌詞の中に歌のタイトルや色々なフレーズが入っております。彼女が自分で自分の20年をこんな風に歌にしたという一曲ですね。さっきもお話しましたが、1990年代をあれだけ冒険的に終えたメジャーの女性アーティストっているかなあって思っていまして。日本だけでなく、海外にもあんなにアグレッシブに関わろうとした。それで考えると、1990年代の最強の女性アーティストだったかもしれないなあと思ったりもしますね。もちろん1990年代を代表した女性アーティストはたくさんいますが、こんな風に誰もやっていないことをやろうとした人はいたかな? ということでこの後もそういう話を続けようと思います。
2000年6月発売のアルバム『area62』から「Just For Tonight」ですね。この曲はロビー・ネビルのプロデュースで曲も書かれていますね。1990年のアルバム『Seiko』、そして1996年のアルバム『WAS IT THE FUTURE』、その2枚に続く3枚目の世界発売。この曲はアメリカのチャート雑誌『Billboard』のダンスチャートで12位だった。もう一曲シングルカットされた『all to you』は15位だったんです。クラブチャートですよ。しかも『all to you』は、作詞作曲も彼女が関わったりしているわけで。こうやって長いキャリアが日本でありながら、40代に入ってアメリカのクラブチャートでランクインしているということを、僕らはどこまでちゃんと受け止めていたのかという反省ですね。先週、今週は本当に反省ばかりしております。こういう言い方をすると語弊はありますが、日本の音楽業界は村なんです。狭いんです。自分たちの知っている音楽、知っている顔ぶれ、知っている知識で物事が動いていることもあって、そこから外れた人たちに対して優しくないです。海外に出ていった人は日本の音楽ファンもそうですし、洋楽のファンからもどこか白い目で見られたりということを経験しながら向こうで戦ったりしている。その中で、女性アイドルでありながらこれをやっているということが、彼女がどれほどのストレスを抱えながらやっていたのかなと。これだけの野心、野望、上昇志向は立派としか言いようがないなと思ったりしています。2010年代に入って、再び日本での活動が活発し始めたように見えた時期の曲をお聴きいただきます。2011年のシングル『特別な恋人』。
2011年11月のシングル『特別な恋人』。作詞作曲が竹内まりやさんですね。シンガー・ソングライターがシングルの作詞作曲をするのは、1985年の『ボーイの季節』の尾崎亜美さんが書いてから26年ぶりですね。つまり聖子さんが、作詞作曲をするようになった時期もあったわけで、人に頼むことが減ってきたということもあるんでしょうし、松本さんがいた分シンガー・ソングライターに丸ごとお願いするということが本当に少なかった。そういう女性、歌手でもあったわけですね。まりやさんが聖子さんに曲を書いたのは、これは必然的な出会いだなと思った記憶があります。松本隆さんが聖子さんが歌うのを初めて聴いた時に「僕が書くべきだと思った」という話をしてますね。それは聖子さんの中にあるアメリカン・ポップスの声、甘くてセンチメンタルでどこか跳ねている。まりやさんもそういう声ですからね。まりやさんもアメリカン・ポップス、コニー・フランシスという1960年代のアメリカのポップスシンガーの代表的な人に憧れたり、影響されて音楽を始めたわけで。やっぱり同じような声の持ち主で違うところで歩いてきた人が、こんな風にこの年で出会ったっていうことに意味がある気がしました。
この年というのは2011年、東日本大震災があった年です。その時聖子さんがどう思ったかというのは、ファンの方はご存知なんでしょう。海外で活動されたり、海外志向のアーティストやクリエイターの中でも、日本で何をやれるか考えようって思った人が多かったわけですが、聖子さんにとっては2011年というのはそういう転機点になったのではないかと思います。2012年にボブ・ジェームス、2013年にクインシー・ジョーンズ。向こうからアーティストが来て来日公演を行う時には、ちゃんと招かれてゲストとして歌っているわけですね。海外からと日本の音楽ファンの評価とは違うものがあるのかもしれないなと思ったりもします。2010年というは聖子さんのデビュー30周年でした。そして次の曲は35周年の曲です。「永遠のもっと果てまで」
2015年の10月に発売となりました『永遠のもっと果てまで』。作詞が松本隆さんで作曲が呉田軽穂さん、ユーミンですね。やっぱりこの二人というシングル。松本さんは、やっぱり聴いていただいたように節目ごとに登場していますが、ユーミンは1984年の「Rockn Rouge」以来の31年ぶりだった。31年経ってこうやって作家陣が再び出会うことになって、みんな現役なわけですね。しかもそれぞれが唯一無二のレジェンドになっているっていうのが、この松田聖子という一人の女性アーティストをめぐる人脈図、これが他の人には無いなという一つの例ですね。松本さんの対談集というのが出ているんです。で、この「永遠のもっと果てまで」というのが出た時にユーミンと対談しているんですが、その中でこの曲の話をしていて、ユーミンが僕たち戦友みたいなものだよねって話をしてました。松田聖子というコンバットに駆り出されて一緒に戦ったと言っているんですね。コンバットっていうのは戦場です。二人にとって松田聖子というのは、戦場だったということになりますね。戦場はずっと続いている。終戦なき戦場というのが、松田聖子という女性なのかもしれません。でもこれは、ものづくりをしている人にとっては最高の褒め言葉でもありますね。35周年の聖子さんに松本さんが送った言葉は"永遠の未完成"。歌詞の中でありました「パズルの最後のかけらをなくした私」。松田聖子というのは、永遠に完成しないパズルだということなんでしょう。その言葉通り、彼女には完成がない、挑戦し続けている。今でもそうなんでしょうね。この曲の後のシングルがこれです。作詞作曲がYOSHIKI、『薔薇のように咲いて桜のように散って』。
2016年9月に発売になった82枚目のシングル、「薔薇のように咲いて桜のように散って」。詞曲がX JAPANのYOSHIKIさんでした。YOSHIKIさんもそういう意味では松田聖子さんということで力が入った、自分でなければ書けない曲を書くんだということで、紅白歌合戦にも彼が登場しました。さっきユーミンの聖子さんをコンバット、戦場という風に例えた。じゃあどんな戦場だったんだろうという風に考えてみると、いろんなことが出てきます。一つは、売れるということが必ず命題になっていた。松田聖子の曲なんだから売れて当たり前、売れなかったら失格、失敗作という風になることを背負いながら曲を書くということがどれほど大変なのか。これは書く人だけじゃなくて歌う人にとってもそうでしょうね。松田聖子という人にとってはずっとそこにいた人で、そこに関わる人も売れるということを必ず求められていた。
そしてもう一つは、他の人がやっていないこと、これまでと違うことを求められてきている。松本さんが書いてきた詞が、ちょっと先の今までと違う松田聖子像を歌い込んできた。曲でも同じことですね。あの曲みたいだということが許されない。あれだけいろんな作家の人が書いてると、あの人みたいっていう風に言われないようにしないといけない。ポップミュージックっていうのはやっぱりビジネスですから、売れるものを再生産するっていう方向に行きたがるわけです。しかも売る方はそういうことを求めるわけですから、作る人、歌う人っていうのはそれに流されないようにしている。
松田聖子という人は、それを両方やってきた人。売れる松田聖子もちゃんと作ってきた、そして誰もしない、皆が理解できないような新しいことも挑戦し続けた。そうやってジャンルも世代もスタイルも超えてきて、アイドルであり続けている。このアイドルということが、こんな風に幅が広くって、僕らが考えている、誰もが考えているイメージと違うところにいながら、そこの枠の中にいる人っていう風に考えると、松田聖子という人は他にいないなと思いながら、この40周年の40曲の最後をこの曲で締め括りたいと思います。デビュー40周年の記念の曲「SWEET MEMORIES ~甘い記憶~」。
今年の4月に配信発売されました「SWEET MEMORIES ~甘い記憶~」。1983年のシングルの新録の40周年バージョン。発売されたときは英語で歌っている歌詞がとても評判になった曲でもあるんですが、そこを日本語で歌っております。松本さんが書いた当時の日本語の詩が残っていて、それを聖子さんが知って改めて歌い直したいと言ってこういう形になりました。当時は誰もが背伸びしすぎてないか、大人っぽすぎないかって思った曲ですよ。これはCMソングとして作曲家の大村雅朗さんに頼んだ。ディレクターの若松宗男さんも、曲を聞かされた松本隆さんも、それを歌うことになった聖子さんも、「え、これ大人っぽすぎない? これ私が歌うの?」と思ったという曲が今こういう風になりました。オリジナルの「SWEET MEMORIES 」は、聖子さんが初めてジャズを歌った曲でもあるんですが、そこから始まってクラブシーンまで経験して2017年と2019年にはジャズのアルバムを出しているわけですね。そういう意味では40年経っていろんな音楽のフィールドを回ってきて、またここに帰ってきた。そういう曲でしょうね。それでいてまだアイドルと呼ばせております。今年9月に新作アルバムが出ますよ、現役ですね。松田聖子は未完成ということになります。今年の4月に発売となりました、「SWEET MEMORIES ~甘い記憶~」でした。
「J-POP LEGEND FORUM」松田聖子特集Part4、今年がデビュー40周年の松田聖子さんの軌跡を辿る一ヶ月。今週はPart4、1996年の「あなたに会いたくて」から2020年の「SWEET MEMORIES ~甘い記憶~」まで辿ってみました。流れているのはこの番組のテーマ竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。実は、40年間、1980年台の半ばにたった1回だけインタビューしたことがあるんですよ。ニューミュージック系のアーティストに曲を頼み始めた時に「GB」っていう音楽雑誌でインタビューを頼まれたんですね。お会いした時に、「え、こういう人だったのか」って思ったことがあります。アイドルですから、大体マネージャーとかレコード会社の人が先に入ってきてその後に本人が来るんです。マネージャーの人が本人を紹介するんですが、インタビューの場所に最初に入ってきたのは聖子さんでした。肩で風を切って入ってきて「よろしくお願いします」。「え、こういう人なの?」と思った記憶がありました。自分の意思でずっと生きてきた人なんだなっていうのを改めて思っております。でもライブは観たことがないんですね。そんな人間が一ヶ月辿るということで、俺でいいのかなと思いながらお送りしたわけですが。J-popと呼ばれている音楽の要素、ほとんど彼女の中にあります。もうクラシック、洋楽、ジャズ、クラブミュージックもいろんなリズムの音楽も全部あります。演歌はないです。日本のポップミュージックそのものが松田聖子なんじゃないかと思ったりもしておりますね。大人のシンガーになるとかアイドルと呼ばれるのを嫌がるとか、いろんな変化がありますが。でも彼女はアイドルでいいって言っているこの凄さ。これを僕らは受け止めなきゃいけない。なんてったってアイドルと歌ったあの人は音楽から離れました。ずっと音楽でやり続けている、こんなに音楽的な女性はいないんではないかということが、40周年の感想であります。次のアルバム、楽しみにしましょう。
2015年にリリースされたオールタイム・ベストアルバム「We Love SEIKO」のブックレットを手にした田家秀樹
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
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デビュー40周年記念アルバム『SEIKO MATSUDA 2020』のリリースが9月30日に予定されている彼女の軌跡をデビュー年である1980年から遡っていく。第4週目となる今回は1990年代から2010年代までの10曲を選出し解説する。
こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは松田聖子さんの「SWEET MEMORIES ~甘い記憶~」。
1983年のシングルでしたが、こちらは4月1日に配信で発売になった40周年バージョンですね。英語の部分が日本語になっております。今月の前テーマはこの曲です。今月2020年5月の特集は松田聖子。今週は4週目、最終週ですね。色々な曲をお届けしてきましたが、聖子さんというと1980年代のヒット曲がたくさん出てくるわけですが、それだけじゃないんだぞっていうことを、こうやってお話している私が痛感しながら放送しております。
1980年代のリゾートヒロインだったとか、アイドルでありながら女性の生き方を歌ってきた人だとか、女性アイドルの中に主体性という考え方を持ち込んだ人だとか。
それを形にしてきたのが作詞家の松本隆さんで、松本さんが聖子さんのちょっと先にテーマをという石を投げてきた。それを聖子さんが自分のものにすることで、彼女自身が成長してきた。そんな話をしてきたわけですね。でもそこから羽ばたいていったということが、何よりも重要なのではないかなと思って、先週と今週お送りしてます。そういう、女性アーティストが誰も経験してきたことがないことを、こんなに経験してきているんだっていうことも先週今週の感想であります。今週は21世紀編ということで、この曲からお聴きいただきます。
1996年4月に発売になりました『あなたに逢いたくて ~Missing You~』。作詞が彼女で、作曲が彼女と小倉良さんの共作ですね。1980年のデビューからずっと所属していたソニーからユニバーサルに移籍した第一弾。この曲の入ったアルバムも移籍第一弾『Vanity Fair』でしたね。1988年の『旅立ちはフリージア』、これがソニー時代の最後のシングルチャート1位だったんですが、『あなたに逢いたくて ~Missing You~』で8年ぶりに一位に復帰しているんですね。『旅立ちはフリージア』は、聖子さんの作詞、作曲はゴダイゴのタケカワユキヒデさんだったんですが、このシングルでは聖子さんが作曲にも加わって一位になっているわけです。
しかも、『あなたに逢いたくて ~Missing You~』はミリオンセラーで彼女のキャリアの中で一番売れているシングルになった。それまでの15年間であれだけヒット曲がありながら、ここにきて一番売れた実績を残している。歴史を塗り替えながら生きてきた人。今週はこの曲からです。1996年4月発売、40枚目のシングル『あなたに逢いたくて ~Missing You~』でした。
1997年4月発売のシングル『私だけの天使 ~Angel~』。作詞が彼女で、作曲も彼女と小倉良さんの共作。編曲は鳥山雄司さんですね。この頃のアレンジは鳥山雄司さんが多いです。1980年代の大村雅朗さんの後を受け継いだというような存在ですね。この曲の説明は不要だと思うんですが、娘さんへの気持ちを歌ったものです。アルバムは1997年5月に出た『My Story』、"私の話"ですよ。
自分を曝け出したと言っていいでしょうね、この曲の歌詞にあるシングルマザーの心境、「あなたがいるからママはこうやって毎日仕事をやっていけるの あなたが生きがいなの」。これはやっぱり、そういう環境の中でお仕事されている女性誰もが持っている、お子さんに対しての気持ちじゃないでしょうか。彼女は、アイドルというところから、ママドルという風に呼ばれるわけですが、結婚しても離婚しても、再婚しても歌に生きるという彼女の生き方はずっと変わってないことになりますね。こういう音楽に対しての関わり方をしてきた女性というのは、少なくとも1970年代のアイドルにはいなかったでしょうね。1980年代にもいなかったでしょう。
1970年代のアイドルで代表的なのが山口百恵さん、キャンディーズもそうですが、音楽を離れて自分の人生を選ぶ、家庭に入るということが美談のように語られた時代。家庭もそれに付随させてきたというと語弊はありますが、聖子さんはそれを超えて自分はずっと音楽をやっていくんだ、歌に生きる人間なんだっていうことを音楽の中に歌い込んできた。この曲はそういう例だったと思いますね。去年の5月の特集が西城秀樹さんだったんです。その時にも思ったんですが、この頃のアイドルと呼ばれた人たちのことを、僕も含めた音楽ジャーナリズムはちゃんと捉えてきただろうか? という反省を先週も言いましたが、今週は特にそう思いながら次の曲ですね。1997年12月に発売になった「Gone with the rain」。
1997年12月に発売になった46枚目のシングル『Gone with the rain』ですね。
初めてのマキシシングルで、作詞が本人で作曲が本人と小倉良さん。アレンジが鳥山雄司さんですね。これかっこいいな、いい曲だなあって思っていたんです。この頃はシングルチャート1位にはもうならないですね。そういうタイプの曲じゃなくなってることもあるんでしょうし、彼女の中に日本のシングルチャートの1位はもういいやっていう感じがあったんじゃないでしょうかね。1980年代から1990年代にかけて、あれだけずっと1位を取り続けて、それを記録として続けることにもう意味は感じられなかったっていうのが、この1990年代の聖子さんだったように思います。先週の最後は、1988年のアルバム『Citron』の「林檎酒の日々」で終わったわけですが、今週は1996年にきています。1990年代が抜けてますよって思われているファンの方も多いと思いますが、1990年代は本当にいろいろな冒険をしていますね。松本さんから一人立ちした時期です。1989年スペインの画家ゴヤの生涯を歌ったミュージカル仕立てのアルバム、これをメインキャストに世界三大テノールのプラシド・ドミンゴと一緒に作っているんですね。その後に1989年のアルバム『Precious Moment』の作詞もしている。で、1993年から1995年に出ているアルバム4枚では作詞も作曲も手掛けているわけです。
アイドルがシンガー・ソングーライターになり、プロデューサーにもなり、海外にも進出し、1990年代は、日本のアイドルはもちろん女性歌手が誰もやってこなかったことを全力でやり続けた。走り続けた10年間だったんだなあと思ったりしました。そうやって過ごしてきた1990年代を締め括ったのが、1999年のこの曲でもあります。「櫻の園」。
1999年12月発売になったアルバム『永遠の少女』から、「櫻の園」ですね。作詞が松本隆さんで、作曲が大村雅朗さん。これはもう永遠の松田聖子、不変の松田聖子と言っていいでしょうね。この上品さ、そして優しさ、センチメンタルで温かい、泥臭くない。洋楽的なバラードで、歌謡曲的なあざとさがない。これはもう他の女性には無いスタイル、これをやれば松田聖子になるんだ、何年の歌でも松田聖子になるという一曲でしょうね。これもアルバム曲でシングルにはなっていませんね。このアルバム『永遠の少女』で、松本隆さんとは11年ぶりにタッグを組んだ。
1988年の『Citron』以来ですね。アルバム10曲中、8曲は松本さんが作詞。いろいろな出会いや別れを経験した大人の愛のアルバムでした。男性にとっては少年だった時、青春だった時は、なかなか青春って歌にしにくいものですが、女性にとっては少女というのがそういう時代なんでしょうね。このアルバムのタイトルは『永遠の少女』ですね。少し背伸びをした生き方をしてきた1980年代、それからもっと大胆になろうとした1990年代があって、永遠の少女という風に歌えるようになった。そういう2000年の始まりになった曲です。2000年5月に出たシングル『20th Party』。
2000年というのは彼女のデビュー20周年でもありますね。その記念シングルがこの曲で50枚目です。作詞が彼女自身ですね、歌詞の中に歌のタイトルや色々なフレーズが入っております。彼女が自分で自分の20年をこんな風に歌にしたという一曲ですね。さっきもお話しましたが、1990年代をあれだけ冒険的に終えたメジャーの女性アーティストっているかなあって思っていまして。日本だけでなく、海外にもあんなにアグレッシブに関わろうとした。それで考えると、1990年代の最強の女性アーティストだったかもしれないなあと思ったりもしますね。もちろん1990年代を代表した女性アーティストはたくさんいますが、こんな風に誰もやっていないことをやろうとした人はいたかな? ということでこの後もそういう話を続けようと思います。
2000年6月発売のアルバム『area62』から「Just For Tonight」ですね。この曲はロビー・ネビルのプロデュースで曲も書かれていますね。1990年のアルバム『Seiko』、そして1996年のアルバム『WAS IT THE FUTURE』、その2枚に続く3枚目の世界発売。この曲はアメリカのチャート雑誌『Billboard』のダンスチャートで12位だった。もう一曲シングルカットされた『all to you』は15位だったんです。クラブチャートですよ。しかも『all to you』は、作詞作曲も彼女が関わったりしているわけで。こうやって長いキャリアが日本でありながら、40代に入ってアメリカのクラブチャートでランクインしているということを、僕らはどこまでちゃんと受け止めていたのかという反省ですね。先週、今週は本当に反省ばかりしております。こういう言い方をすると語弊はありますが、日本の音楽業界は村なんです。狭いんです。自分たちの知っている音楽、知っている顔ぶれ、知っている知識で物事が動いていることもあって、そこから外れた人たちに対して優しくないです。海外に出ていった人は日本の音楽ファンもそうですし、洋楽のファンからもどこか白い目で見られたりということを経験しながら向こうで戦ったりしている。その中で、女性アイドルでありながらこれをやっているということが、彼女がどれほどのストレスを抱えながらやっていたのかなと。これだけの野心、野望、上昇志向は立派としか言いようがないなと思ったりしています。2010年代に入って、再び日本での活動が活発し始めたように見えた時期の曲をお聴きいただきます。2011年のシングル『特別な恋人』。
2011年11月のシングル『特別な恋人』。作詞作曲が竹内まりやさんですね。シンガー・ソングライターがシングルの作詞作曲をするのは、1985年の『ボーイの季節』の尾崎亜美さんが書いてから26年ぶりですね。つまり聖子さんが、作詞作曲をするようになった時期もあったわけで、人に頼むことが減ってきたということもあるんでしょうし、松本さんがいた分シンガー・ソングライターに丸ごとお願いするということが本当に少なかった。そういう女性、歌手でもあったわけですね。まりやさんが聖子さんに曲を書いたのは、これは必然的な出会いだなと思った記憶があります。松本隆さんが聖子さんが歌うのを初めて聴いた時に「僕が書くべきだと思った」という話をしてますね。それは聖子さんの中にあるアメリカン・ポップスの声、甘くてセンチメンタルでどこか跳ねている。まりやさんもそういう声ですからね。まりやさんもアメリカン・ポップス、コニー・フランシスという1960年代のアメリカのポップスシンガーの代表的な人に憧れたり、影響されて音楽を始めたわけで。やっぱり同じような声の持ち主で違うところで歩いてきた人が、こんな風にこの年で出会ったっていうことに意味がある気がしました。
この年というのは2011年、東日本大震災があった年です。その時聖子さんがどう思ったかというのは、ファンの方はご存知なんでしょう。海外で活動されたり、海外志向のアーティストやクリエイターの中でも、日本で何をやれるか考えようって思った人が多かったわけですが、聖子さんにとっては2011年というのはそういう転機点になったのではないかと思います。2012年にボブ・ジェームス、2013年にクインシー・ジョーンズ。向こうからアーティストが来て来日公演を行う時には、ちゃんと招かれてゲストとして歌っているわけですね。海外からと日本の音楽ファンの評価とは違うものがあるのかもしれないなと思ったりもします。2010年というは聖子さんのデビュー30周年でした。そして次の曲は35周年の曲です。「永遠のもっと果てまで」
2015年の10月に発売となりました『永遠のもっと果てまで』。作詞が松本隆さんで作曲が呉田軽穂さん、ユーミンですね。やっぱりこの二人というシングル。松本さんは、やっぱり聴いていただいたように節目ごとに登場していますが、ユーミンは1984年の「Rockn Rouge」以来の31年ぶりだった。31年経ってこうやって作家陣が再び出会うことになって、みんな現役なわけですね。しかもそれぞれが唯一無二のレジェンドになっているっていうのが、この松田聖子という一人の女性アーティストをめぐる人脈図、これが他の人には無いなという一つの例ですね。松本さんの対談集というのが出ているんです。で、この「永遠のもっと果てまで」というのが出た時にユーミンと対談しているんですが、その中でこの曲の話をしていて、ユーミンが僕たち戦友みたいなものだよねって話をしてました。松田聖子というコンバットに駆り出されて一緒に戦ったと言っているんですね。コンバットっていうのは戦場です。二人にとって松田聖子というのは、戦場だったということになりますね。戦場はずっと続いている。終戦なき戦場というのが、松田聖子という女性なのかもしれません。でもこれは、ものづくりをしている人にとっては最高の褒め言葉でもありますね。35周年の聖子さんに松本さんが送った言葉は"永遠の未完成"。歌詞の中でありました「パズルの最後のかけらをなくした私」。松田聖子というのは、永遠に完成しないパズルだということなんでしょう。その言葉通り、彼女には完成がない、挑戦し続けている。今でもそうなんでしょうね。この曲の後のシングルがこれです。作詞作曲がYOSHIKI、『薔薇のように咲いて桜のように散って』。
2016年9月に発売になった82枚目のシングル、「薔薇のように咲いて桜のように散って」。詞曲がX JAPANのYOSHIKIさんでした。YOSHIKIさんもそういう意味では松田聖子さんということで力が入った、自分でなければ書けない曲を書くんだということで、紅白歌合戦にも彼が登場しました。さっきユーミンの聖子さんをコンバット、戦場という風に例えた。じゃあどんな戦場だったんだろうという風に考えてみると、いろんなことが出てきます。一つは、売れるということが必ず命題になっていた。松田聖子の曲なんだから売れて当たり前、売れなかったら失格、失敗作という風になることを背負いながら曲を書くということがどれほど大変なのか。これは書く人だけじゃなくて歌う人にとってもそうでしょうね。松田聖子という人にとってはずっとそこにいた人で、そこに関わる人も売れるということを必ず求められていた。
そしてもう一つは、他の人がやっていないこと、これまでと違うことを求められてきている。松本さんが書いてきた詞が、ちょっと先の今までと違う松田聖子像を歌い込んできた。曲でも同じことですね。あの曲みたいだということが許されない。あれだけいろんな作家の人が書いてると、あの人みたいっていう風に言われないようにしないといけない。ポップミュージックっていうのはやっぱりビジネスですから、売れるものを再生産するっていう方向に行きたがるわけです。しかも売る方はそういうことを求めるわけですから、作る人、歌う人っていうのはそれに流されないようにしている。
松田聖子という人は、それを両方やってきた人。売れる松田聖子もちゃんと作ってきた、そして誰もしない、皆が理解できないような新しいことも挑戦し続けた。そうやってジャンルも世代もスタイルも超えてきて、アイドルであり続けている。このアイドルということが、こんな風に幅が広くって、僕らが考えている、誰もが考えているイメージと違うところにいながら、そこの枠の中にいる人っていう風に考えると、松田聖子という人は他にいないなと思いながら、この40周年の40曲の最後をこの曲で締め括りたいと思います。デビュー40周年の記念の曲「SWEET MEMORIES ~甘い記憶~」。
今年の4月に配信発売されました「SWEET MEMORIES ~甘い記憶~」。1983年のシングルの新録の40周年バージョン。発売されたときは英語で歌っている歌詞がとても評判になった曲でもあるんですが、そこを日本語で歌っております。松本さんが書いた当時の日本語の詩が残っていて、それを聖子さんが知って改めて歌い直したいと言ってこういう形になりました。当時は誰もが背伸びしすぎてないか、大人っぽすぎないかって思った曲ですよ。これはCMソングとして作曲家の大村雅朗さんに頼んだ。ディレクターの若松宗男さんも、曲を聞かされた松本隆さんも、それを歌うことになった聖子さんも、「え、これ大人っぽすぎない? これ私が歌うの?」と思ったという曲が今こういう風になりました。オリジナルの「SWEET MEMORIES 」は、聖子さんが初めてジャズを歌った曲でもあるんですが、そこから始まってクラブシーンまで経験して2017年と2019年にはジャズのアルバムを出しているわけですね。そういう意味では40年経っていろんな音楽のフィールドを回ってきて、またここに帰ってきた。そういう曲でしょうね。それでいてまだアイドルと呼ばせております。今年9月に新作アルバムが出ますよ、現役ですね。松田聖子は未完成ということになります。今年の4月に発売となりました、「SWEET MEMORIES ~甘い記憶~」でした。
「J-POP LEGEND FORUM」松田聖子特集Part4、今年がデビュー40周年の松田聖子さんの軌跡を辿る一ヶ月。今週はPart4、1996年の「あなたに会いたくて」から2020年の「SWEET MEMORIES ~甘い記憶~」まで辿ってみました。流れているのはこの番組のテーマ竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。実は、40年間、1980年台の半ばにたった1回だけインタビューしたことがあるんですよ。ニューミュージック系のアーティストに曲を頼み始めた時に「GB」っていう音楽雑誌でインタビューを頼まれたんですね。お会いした時に、「え、こういう人だったのか」って思ったことがあります。アイドルですから、大体マネージャーとかレコード会社の人が先に入ってきてその後に本人が来るんです。マネージャーの人が本人を紹介するんですが、インタビューの場所に最初に入ってきたのは聖子さんでした。肩で風を切って入ってきて「よろしくお願いします」。「え、こういう人なの?」と思った記憶がありました。自分の意思でずっと生きてきた人なんだなっていうのを改めて思っております。でもライブは観たことがないんですね。そんな人間が一ヶ月辿るということで、俺でいいのかなと思いながらお送りしたわけですが。J-popと呼ばれている音楽の要素、ほとんど彼女の中にあります。もうクラシック、洋楽、ジャズ、クラブミュージックもいろんなリズムの音楽も全部あります。演歌はないです。日本のポップミュージックそのものが松田聖子なんじゃないかと思ったりもしておりますね。大人のシンガーになるとかアイドルと呼ばれるのを嫌がるとか、いろんな変化がありますが。でも彼女はアイドルでいいって言っているこの凄さ。これを僕らは受け止めなきゃいけない。なんてったってアイドルと歌ったあの人は音楽から離れました。ずっと音楽でやり続けている、こんなに音楽的な女性はいないんではないかということが、40周年の感想であります。次のアルバム、楽しみにしましょう。
2015年にリリースされたオールタイム・ベストアルバム「We Love SEIKO」のブックレットを手にした田家秀樹
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田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
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月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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