『上を向いて歩こう』は、今から61年前の1963年6月15日に『SUKIYAKI』というタイトルで全米チャート1位に輝いた。そんな世界で一番有名な日本の名曲の誕生秘話をお届けする。
「もっと歌のうまい人に歌ってほしい」永六輔、坂本九に怒り…
1961年7月21日の午後。東京・大手町の産経ホールでは、人気ジャズ・ピアニストにして第1回日本レコード大賞受賞の新進作曲家、中村八大による『第3回中村八大リサイタル』のリハーサルが始まっていた。
「ウへッフォムフフィテ、アハルコフホフホフホフ……」
会場の舞台袖に立ってステージを見つめていた舞台監督の永六輔は、思わず耳を疑った。
「はじめまして、坂本九と申します」と、今しがた愛嬌のある笑顔で挨拶されたばかりの少年が歌っている。大舞台での緊張からか直立不動となり、明らかに足をガタガタと震わせている。
震えはともかく、歌い方がちょっとふざけすぎだと思った。この歌の作詞をしたのは自分なのだ。永六輔は驚きと怒りを胸に秘めて、リハーサルが終わるとすぐ中村八大に抗議した。
「何なんですか、あれは!? もっと歌のうまい人に歌ってほしい。日本語を大切に歌ってほしい!」
だが、中村八大は「あれでいいんだよ。あれがいいんだ」と、まったく取り合ってくれなかった。それどころかとても評判がよく、クレージーキャッツのハナ肇が「いい歌だな」と言うと、女優の水谷良重(現・八重子)も「こういうのヒットするのよ」と、楽屋の廊下で会話していた。
そしてNHKの音楽バラエティ『夢であいましょう』のディレクターだった末盛憲彦も大いに気に入り、番組ですぐに取り上げることを決めた。
このとき中村八大30歳、永六輔28歳、坂本九19歳。
後に「六・八・九トリオ」と呼ばれることになる3人の『上を向いて歩こう』は、こうして産声を上げた。
「明日の朝までに10曲作ってほしい」と頼まれたピアニスト
伝説の始まり。それは1959年5月のことだった。
中村八大は日比谷の東宝本社で、映画プロデューサーから「低予算ロカビリー映画の劇中で使う歌を10曲、明日の朝までに作ってほしい」という、とんでもない仕事を頼まれる。
約束はしたものの、作詞をどうしたらいいか分からない。不安を抱えながら歩いていると、有楽町の日劇前で顔見知りだった放送作家と偶然に出くわした。
永六輔だった。
事態は急を要するので、藁をもつかむ心境で彼を呼びとめてワケを話した。すると、快諾してくれたので、そのまま自分のアパートヘ向かった。二人とも作詞作曲の専門家ではなく、ピアニストと放送作家だった。
本来なら、一つずつ作詞したものに作曲するか、作曲したものに詞をつけて完成させる。だが時間がなくてそんな手順は踏んでいられない。
その中から、斬新なロッカ・バラード『黒い花びら』が、映画『青春を賭けろ』の挿入歌として選ばれた。
六・八コンビの処女作となった『黒い花びら』は、それまでにない新しい感覚で若者の支持を受け、ロカビリー歌手の水原弘によるレコードが1959年7月に発売になると大ヒット。
さらにはその年に創設されたばかりの第1回日本レコード大賞で、グランプリを受賞した。
「上を向いて歩こう、涙がこぼれないように」という歌詞になった理由
六・八コンビのソングライティングには、特別の取り決めがあった。永六輔がこう語っている。
「普段僕らが使っている言葉だけで歌詞を作ろうということが一つ。歌の世界には、話し言葉とは違った語法がまかり通っている。それを僕らは使わないんです」
確かに『上を向いて歩こう』は口語体で、物語の設定やシチュエーションについての具体的説明がない。
どんな理由で涙がこぼれるのか、どうしてひとりぼっちなのかさえ、何も手掛かりはない。主人公が男なのか女なのか、若いのか年配なのかも想像できない。
1960年6月15日。国会議事堂の構内で安保反対運動の先頭に立つ全学連のデモ隊と機動隊が衝突し、混乱の中で東大生の樺美智子さんの命が奪われるという悲劇が起きた。
安保条約改定は自民党の単独採決によって衆議院で可決され、参議院は議決なしで自然承認となった。
永六輔は民主主義の危機を感じて行動していた若者たちや、二度と戦争が起きないようにという気持ちで参加していた女性たちの姿を目の当たりにして、いてもたってもいられずに人気番組の仕事を迷いもなく降板し、積極的に運動に関わっていた。
だから樺美智子さんの悲劇も、安全保障条約の自然承認も、大きな挫折体験以外の何ものでもなかった。
さらには10月12日。永六輔が慕っていた社会党委員長の浅沼稲次郎が、TVとラジオの中継が入った演説会の壇上で、17歳の右翼少年に刺殺されるという事件が起きた。
「60年安保挫折に追い打ちを掛けるように浅沼委員長は亡くなった。そんな辛い気分をホッとさせてくれたのが長女の誕生。僕は父親になった」
一つの時代が終わると、次の時代が始まる。世の中は夢や理想の追求から、現実の生活における利益追求へと、転向を余儀なくされた。
翌年の春、人類は初めての有人宇宙飛行に成功。ソ連の宇宙飛行士ガガーリンは、「地球は青かった」と伝えた。
同じ頃、中村八大から夏に開催するリサイタルに向けて、永六輔は「歩く歌」を書いてほしいと依頼された。
そこでかつての自らの胸の内を託すかのように、「上を向いて歩こう、涙がこぼれないように」と言葉を連ねた。
「もう『上を向いて歩こう』は僕だけの歌じゃない」
こうして六・八コンビによって完成した『上を向いて歩こう』は、当初から独特のフィーリングを持つティーン・アイドル、坂本九を歌手として想定したものだった。
時代の息吹を表現できる若さ、溢れるビート感こそがこの曲に必要だと、中村八大は確信していたのだ。
坂本九が初めて人前で歌ったのは、高校2年生の頃である。いわゆるバンド付きのボーヤとして、ドリフターズの現場で働きながらステージの最後に一回だけ、歌を歌わせてもらえたのだ。
1958年4月、立川の将校クラブで汗だくになって、憧れだったエルヴィス・プリスリーの『ハウンド・ドッグ』を歌い終えると、拍手と一緒に観客から「エルヴィス、また来いよ!」と英語で声がかかった。その時は嬉しくて涙が流れたという。
その翌年には最年少で『日劇ウエスタンカーニバル』に出演。『悲しき60才』と『ステキなタイミング』が連続してヒットし、坂本九が茶の間の人気者になったのは1960年のことだ。
過密スケジュールの中にあったために、『上を向いて歩こう』の譜面を見せられたのは、『第3回中村八大リサイタル』の当日だった。そしてマネジャーの曲直瀬信子から、口伝でメロディを教えてもらった。
「あの曲を貰った時はどうしようかって思った。
だってメロディに対して恐ろしく歌詞が少ない。最初間違いかと思ったくらい……で、いろいろ考えてああいう歌い方をしたんです。八大さんは僕ならプレスリーみたいに歌うだろうと思っていたらしいから」
1961年8月19日、NHKの『夢であいましょう』で、『上を向いて歩こう』はテレビを通して遂に日本全国に届けられた。
曲も詞も歌い方も、どれもが前例のない表現だった。その夜、多くの若者が心打たれて、そこから空前の反響を巻き起こしていく。
アメリカで全米チャートの1位に輝いたのは、1963年6月15日のことだ。奇しくもその日は、東大生の樺美智子さんの命が奪われた日だった。
「もう『上を向いて歩こう』は僕だけの歌じゃない。世界中の人の歌なんだ。生意気なこと言うみたいだけど、『上を向いて歩こう』って世界中の人への素晴らしいメッセージだと思いませんか? 僕はそのメッセンジャーボーイになれただけでも光栄です」
坂本九が言った通り、この歌は日本だけでなく世界中に知れ渡って、60年以上経った今も、夢や希望を忘れない人々に歌い継がれている。
文/佐藤剛、中野充浩 編集/TAP the POP サムネイル/2023年6月15日発売
『THE BOX of 上を向いて歩こう/SUKIYAKI【生産限定盤】』(UNIVERSAL MUSIC)
参考・引用/『上を向いて歩こう』佐藤剛(岩波書店)