ぼくは仕事柄、番組改編期などによくある「警視庁二十五時」「全国交通警察二十四時」とかいった特番を勉強半分、興味半分で観ることが多いのだが、結局いつも考えるのは「リアリティ」というものについてだ。例えば麻薬密売の被疑者が自宅に来た警官と交わす押し問答。例えば現場に急行するパトカーに事件発生を告げるセンターとのやりとり。どれもこれも、刑事ドラマで見るのとはまるで違う、極めてのんびりとした緊迫感のない映像に思える。
本物の誘拐事件で、犯人からの脅迫電話が公開されたときにも似たようなことを思う。
「明日五時までに1000万円用意しろ。さもないと人質の命はないものと思え」なんてのとはほど遠い台詞を、迫力のかけらもないトーンでしゃべるのが普通だ。電話を受ける側も受ける側で「息子は……息子の声を聞かせてください!」などと必死に訴えたりはしないようなのだ。
今文章で適当に再現してみよう。
犯人「1000万円を用意してください」
人質の親「1000万円ですね」
犯人「そうです。
親「分かりました。それをどうすればいいですか?」
犯人「……明日五時までに用意して、待っていてください。また電話します」
親「○○(息子の名前)はどうしていますか?」
犯人「寝ています」
声のトーンを文章で表わすのは難しいけれどイメージ的にはこんなノリだ。現実の誘拐事件がいつもそうなのだ、などと言うつもりはない。しかし概ね、刑事ドラマ、犯罪ドラマ――いや、あらゆるドラマ、映画、小説などのフィクションで描かれる人々の会話、行動の多くが、リアルとはほど遠いデフォルメを施されていることは間違いない。そしてそういうドラマばかり観ていると、段々、人間とは、世の中とはそういうものだと思ってしまいがちだ。
「それでも、生きてゆく」は、そういったデフォルメと、つい使ってしまいがちな紋切り型を断固拒否した脚本、演出を毎回毎回貫き続けた希有なドラマだった。
犯罪を扱ったドラマとしては、特にプロットに凝っているわけではない。酒鬼薔薇聖斗が起こした第一、第二の事件(金槌で少女を襲った方の)を思わせる少年事件が過去にあり、長い間接触していなかった被害者家族と加害者家族が出会ったことによって新たに起きる人々の葛藤を描いた作品だ。幼い娘を殺された家族はどうやって悲しみを乗り越えるのか、加害者の家族は、そして大人になって更正したかに見える「少年A」は果たして今何を考えているのか、そもそも一体なぜ罪のない少女を殺したのか――。どれもこれも重くて、単純にめでたしめでたしと結末をつけられないであろう難しいテーマだ。
正直、この設定に惹かれて観始めはしたものの、最初の数回は「こんな難しいテーマではそうそう納得できるドラマにはならんだろうな」と期待半分、ダメ出しする気半分で観ていた。
加害者家族は、苗字を変え転居をしてもいつの間にか怪文書によって素性がバラされてしまい再び転居するという、忍従の年月を送っている。少年Aの妹・双葉(満島ひかり)は就職したばかりの職場を追われ、ついに我慢できなくなって、被害者遺族の嫌がらせではないかと被害者の父親が経営する釣り宿へひとり赴く。加害者一家は少年Aを除いて結束しているのに比べ、被害者遺族の方は夫婦が離婚、二人の息子をそれぞれが引き取り家族がバラバラになっているという皮肉。素性を隠し釣り宿に赴いた双葉は、父を手伝っている長男・洋貴(瑛太)に出会い、事件が彼らに深い傷を負わせ、今もまだ大きな影を落としていることを知る。対照的な立場でありながら、自分たちは似ていると感じる双葉。異色の恋愛ものになるのか、それとも犯罪者の更生の難しさみたいな話になるのか、復讐の話なのか、それともミステリー的な展開になるのか、まったく先が読めなかった。
しかしともかく、レギュラー陣の演技、演出、そして脚本(ダイアローグ)の秀逸さだけは最初から際立っていた。
ぼくが「参りました」と思い、いかなる展開になろうとこのドラマは良作に違いないと確信したのは、被害者の母・響子(大竹しのぶ)が事件以来初めて、憎み続けた加害者の両親・三崎夫妻(時任三郎・風吹ジュン)と顔を合わせてしまう場面だ。響子は彼らに謝罪などしてほしくない、と言いつつ、その動向をいまだに興信所に探らせ、転居のたびに怪文書をばらまかせてきた張本人だ。その響子が、偶然息子と二人釣り宿にいるところに、三崎夫妻が訪ねてきて鉢合わせしてしまう。これまでの恨み辛みをぶちまけるのか、何としてでも彼らと口など利きたくないと逃げ出すか――緊迫の瞬間だ。
しかしそこで母は息子に、「お茶をお出しして。
結局居心地悪そうにそうめんをすすり始める加害者と被害者の家族。謝罪など聞きたくないという気持ち、取り乱したくないという気持ちがぶつかりあった結果の行動として、意表を突きながらも説得力のある、そしてそれだけに異様な迫力を持ち得たシークエンスだった(その後も、小野武彦のシャンプーの件とか、クライマックスにおけるポテトサラダの件とか最後の最後にかましてくれた呆気にとられるようなオチとか語りたいことは尽きないのだが、どれもこれもネタばらしになるので控えておく)。
瑛太がいい。満島ひかりがいい。そしてもちろん、大竹しのぶが素晴らしい。
これら役者一人一人を、紋切り型を排した脚本、演出でくっきりと描き出していくことで、大きな事件は十五年も前の死一つだけでありながら、我が身を切られるように痛々しく切ないドラマが毎回毎回展開されていくのだ。
「それでも、生きてゆく」は7月7日に放送が始まり、9月15日に全11回の放送を終えた。第一回の視聴率は10.6%で、それ以降ほぼ一桁で推移、最終回も10.1%だったようだ(関東地区、ビデオリサーチ調べ)。ドラマ不振と言われる現在でも、フジテレビ制作木曜10時のドラマとしては「惨敗」と言っていい数字だろう。
俳優と、脚本と、演出がこれほどの奇跡の融合を果たした作品は10年――いや、半世紀に一度かもしれない。これを観ないで他に観るべきドラマなんかこの日本にあっただろうかとさえ思う。ともかく心あるドラマファンは、地上波でもBSフジでも再放送があったら逃さず観るべきだし、DVDBOXが発売されたら即買いだ。
ぼく? もちろん買いますよ。ぼくはたいていDVDはコレクター的な気持ちでしか買わないけれど、このドラマは何度でも繰り返し観たいと思ってるから(HDD録画は毎回消してしまってた。だって、こんな傑作だって最初は分からんやん?)。
だからフジテレビさん、早くDVD発売に踏み切ってくださいね。(我孫子武丸)