巨人は25日、阿部慎之助監督の退任を受けて、26日の交流戦から橋上秀樹オフェンスチーフコーチが監督代行をシーズン終了まで務めると発表した。26日には阿部監督の辞任が正式に決まり、チームは想像もしていなかった難局を乗り越えなければならない状況に陥った。

筆者は橋上監督代行に17年以上取材をし続け、2年前には『オイシックス新潟アルビレックスBCの挑戦』(双葉社)を刊行するため、1年間橋上とチームに密着していた。その年の秋に巨人の一軍コーチへの就任が決まり、今年はコーチの肩書が変わったが、今回の騒動からの人事の決定については、橋上本人にとってもまさに青天の霹靂であったはずだ。

野村のID野球、原の直感力——2人の名将に仕えた橋上秀樹が、...の画像はこちら >>

忘れがたい2人の名監督

橋上は引退後の指導者としてのキャリアが非常に豊富である。コーチとして楽天で6年(2005~09年、15年)、巨人で4年以上(2012~14年、25年~)、西武で3年(16~18年)、ヤクルトで1年(19年)を歴任した。さらに監督としては独立リーグのオイシックス(前身は新潟アルビレックスBC)で5年を数え、指導歴は合わせて20年近くに及ぶ。

以前話を伺った際、野球界で影響を受けた監督が2人いたと明かしてくれた。1人が野村克也、もう1人が原辰徳である。

橋上は安田学園から1983年ドラフト3位でヤクルトに入団した。同期には現在ヤクルトで一軍監督を務める池山隆寛、日本ハムで日本一に輝き侍ジャパンを率いて世界一の監督となった栗山英樹らが名を連ねる。

プロ入り後、武上四郎、土橋正幸、関根潤三という3人の監督の下でプレーしてきたが、1989年秋に野村の監督就任が決まったときには、厳しい野球になるだろうと覚悟を決めた。

キャンプでの開口一番、野村は…

野村体制の1年目となる1990年の春季キャンプでのこと。橋上がバットを長く持ってフリーバッティングを行っていたとき、野村が歩み寄って言葉をかけた。

「王はバットを一握り余らせて868本。オレはバットをふた握り余らせて657本。
おまえさんはバットを目一杯持って、これまで何本ホームランを打っているんだ?」

橋上はプロ6年の間、一軍では1本のホームランしか打っていなかった。ホームランバッターでもなく、胸を張れるような一軍での実績もない。バットを短く持って確実にボールを当て、ゴロを転がすことこそが自分に求められた役割だと理解した。

以降は確実性を高めるためにバットを短く持ち、細かいサインプレーに適応できるようバッティングの技術を磨き続けた。

ベンチでの仕事が認められ、出場数が増加

真摯に取り組むなかで、野村から一度だけ褒められたエピソードがある。

ヤクルトでは当時、同一チームとの3連戦の初戦が終わった際、気づいた点があれば首脳陣に報告しておく習慣があった。

橋上は特定のチームと対戦した際、三塁コーチャーのサインの出し方において、盗塁とヒットエンドランの明確な違いに気づいた。その内容を首脳陣に伝え、実際にヒットエンドランのサインが出た際、ベンチからキャッチャーの古田敦也にウエストボールの指示を送って、二塁ベース付近でランナーをアウトにしたのだ。

試合終了後、橋上は野村から相手チームのクセや動きを見抜くのが好きなのかと問われ、「試合に出場していないときには相手の動きを観察するのも仕事だと思っています」と返答すると、「そうか。それはいいことだ」と称賛された。

この出来事が野村からの信頼へと繋がり、以降、野村は橋上に試合出場のチャンスを与える機会が増えた。さらに野村が楽天の監督に就任して1年が経った2007年には、橋上をヘッドコーチに据えている。

野村との出会いがなければ、野球に携わっていない

橋上が野村の下で学んだのは、ID野球と呼ばれるデータに基づいた戦略や論理的な技術面だけではない。人生観や仕事観についても新鮮な気持ちで向き合っていた。


野村自身の「知らないよりは知っておいたほうがいい」というスタンスに基づいたミーティングは、人間教育の場であった。橋上はお金では買えない大きな財産になったと振り返る。

「それまでの首脳陣とのミーティングでは、サインやフォーメーションの確認をすることは当然のようにありましたが、人を育てていくうえで考えていくべきことを説かれたことは一度もなかったんです。それだけに野村さんのミーティングは新鮮に感じて、毎回ホワイトボードに書き込んだ内容をノートに書き写していました」

今でもふとしたときに、野村氏の教えが書かれたノートを読む。当時教わったことで忘れていた部分を見直し、指導のバイブルにしているのだ。
 
「野村さんとの出会いがなければ、引退後は野球とはまったく関係のない世界で仕事をしていたと思います。野村さんの野球を学んだことが、今の私の礎を作ったことは間違いありません」

前途多難な幕開けだった巨人時代

もう1人の恩師である原とは、橋上が巨人の戦略コーチに就任した2012年からの3年間をともに戦った。

2011年秋に就任が決まっていたものの、橋上の招聘に動いた当時のGMが直前に解任されてしまう。

さらに、当時の監督であった原からは球団から任務の内容をまったく聞いていないという話を打ち明けられ、戸惑いと不安に襲われた。一部で「スパイ」などと否定的な報道をされるなか、歓迎されない立場からのスタートとなる。

だが、少し時間が経ってから原と再び会った際、「こちらが困ったことがあったら必ず君に質問する。そのときは遠慮なく答えてほしい」と言葉をかけられた。

その言葉を意気に感じ、作戦面だけにとどまらず、試合が進行していくなかでチームの戦力として機能している選手と機能していない選手について、事細かにチェックする役割に徹する。


どん底を打破するための策が一致した

2012年シーズンが開幕すると、巨人は連敗を重ねて最悪の滑り出しとなった。5勝11敗で迎えた神宮球場でのヤクルト戦で3連敗を喫すると、借金9となり最下位にあえぐ。試合後、原監督の号令の下で首脳陣全員が集まり、緊急ミーティングが行われた。

「見ての通り、今チームはどん底の状態にある。みんなで知恵を出し合って打開策を講じたい。遠慮なく意見を言ってほしい」

原がそう促すと、コーチ陣から打順の入れ替えやスタメンの変更など様々な意見が出た。原は首をひねったままで、橋上は指揮官が求めている答えではないと直感する。

「橋上、君はどう思うんだ?」

原からこう意見を求められた橋上は、明確に「小笠原(道大)の起用法に悩んでいるのではないですか?」と切り出した。

原はうなずき、「よく言ってくれた。実はオレも小笠原の起用法に悩んでいた。たしかに彼はチームを3連覇に導いてくれた功労者だが、君の言葉で踏ん切りがついた。今後は起用を見直そうじゃないか」と応じてくれたのだ。

2007年からのリーグ3連覇、09年の日本一に貢献した小笠原だが、このシーズンは37歳を超え、衰えが目立ち始めていた。
現状を打破する策として、原のなかではスタメンから外す決断をしようとしていた一方、踏ん切りをつけられずにいたのだ。結果として、橋上の指摘が指揮官の覚悟を決める後押しとなる。

とても真似できない「天性の直観力」

橋上は原の采配を間近に見ていて、野村とは違うすごさを感じた。それが「直観力の鋭さ」である。

ある試合で巨人が1点リードしていた終盤、相手チームの先頭打者が出塁して無死一塁という場面を迎えた。巨人の投手が初球ボール、2球目ストライクとなったとき、ベンチの原がバッテリーコーチに、当時キャッチャーであった阿部慎之助へ「外せ」のサインを送るよう指示を出した。

だが、3球目を投げても相手ベンチに動く気配はない。2ボール1ストライクとなり、次は勝負かと思われたが、続けて原は「外せ」のサインを出した。ここで外したら3ボールになり、カウントが悪くなる。

だが、相手は予測に反し、次のカウントで一塁ランナーが盗塁を敢行。巨人バッテリーはサイン通りあらかじめウエストしていたため、二塁の手前で楽々アウトに仕留めた。

なぜ2球続けて「外せ」のサインを送ることができたのか、橋上が不思議に思って原に直接質問すると、このような答えが返ってきた。

「普通ならば1ボール1ストライクから1球外したら、打者有利のカウントになるから、次のボールは『必ず勝負してくる』と相手ベンチは考える。
だからこそ2球続けて外したんだ」

原の持つ直感力は「決断力」とも表現できるが、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた経験が身につけさせたものだと、橋上は分析していた。

仮に野村であれば「なぜ2球外すのか」という明確な理由を求めてくる。理由がなければ作戦ではなく「ヤマ勘」だと言われて一蹴されてしまうからだ。

だが、原は違う。理論でも理屈でもなく直感で動く。ひらめいたときには高い確率で的中させていたため、その才能については天性のものとしか言いようがないと橋上は分析していた。

“両極端な2人”の下での経験は大きな財産に

楽天時代、野村の下でヘッドコーチを務めていたとき、「オレには原の采配が理解できない」というボヤキをよく耳にした。これは2人の野球観の違い、すなわち野球人として生まれ育った環境の違いだと、橋上は考えていた。

原は高校1年生の夏を皮切りに甲子園に4回出場。大学進学後は全日本の4番を務め、ドラフト1位で巨人に入団して中心選手として活躍する。引退後も巨人の監督を17年間務めて実績を重ねた、いわばエリート街道を歩んできた好例だ。

一方の野村は、無名の府立高校からテスト生として南海に入団した。数々の記録を作り、監督としても実績を残した、たたき上げの野球人生である。


両極端な野球人生を歩んだ2人だからこそ、理解できない部分のほうが多かったのだろう。橋上はこれに正解や不正解はないと語る。

「2人の指揮官の下でコーチとして経験を積むことができた私にしてみれば、野村さんから学んだものはとてつもなく多くありました。そして原さんからは、巨人を率いる将としてどうあるべきかという姿勢を学ばせてもらいました。この2つは、今でも私の大きな財産となっているんです」

“横綱ではない巨人”でどう戦うか

2026年シーズン途中に、橋上は急遽、監督代行を務めることになった。戦国武将の毛利元就は「人生には上り坂、下り坂、そして“まさか”の坂がある」と言ったとされるが、今回の人事はまさに“まさか”の心境だったに違いない。

楽天時代、野村の下にいたときには、勝ち方のバリエーションは豊富にあるものだと考えていた。相撲に例えれば、寄り切りや押し出しだけでなく、けたぐりやいなし、奇襲のような技を駆使して最後に勝つという戦略だ。

原監督時代の巨人でそのような提案をした際、指揮官からは決まって「橋上、君の言いたいこともわかるが、ここは巨人だぞ」と一蹴された。

当時の巨人は投打のバランスが整っており、相手は横綱と思って挑んでくる。戦力が乏しいチームであれば奇襲も必要だが、横綱が奇襲を使うことはない。四つ相撲を取り切って寄り切りや押し出しで勝つのが原の考える「巨人の野球」であった。

だが、現在の巨人には、当時の横綱のような圧倒的な強さはない。セ・リーグでは阪神が巨人よりも頭一つ抜けた強さを誇っており、巨人は平幕上位の力であると見るべきだ。

橋上が監督代行としてどんな野球を展開してくるのか、大いに注目したいものだ。シーズンはまだ2ヵ月を経過したところで、まだ100試合近く残っている。予期せぬ出来事によってチームは逆風にさらされているが、若手とベテランの力を結集させ、思い切った采配によって困難な事態を打開してほしいと期待している。

<TEXT/小山宣宏>

【小山宣宏】
スポーツジャーナリスト。高校野球やプロ野球を中心とした取材が多い。雑誌や書籍のほか、「文春オンライン」など多数のネットメディアでも執筆。著書に『コロナに翻弄された甲子園』『オイシックス新潟アルビレックスBCの挑戦』(いずれも双葉社)
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