世界的なベストセラー『悪童日記』は、ハンガリー出身の女性作家アゴタ・クリストフ(1935〜2011)による小説。続編の『ふたりの証拠』『第三の嘘』とあわせて「三部作」と呼ばれている。
これまで「映画化は不可能」と言われてきた作品だったが、ついに映画化! 日本では10月3日から公開される
映画の公開を記念して、新宿Cafe Live Wireでトークイベント「訳者・堀茂樹が語る『悪童日記』アゴタ・クリストフのすべて」が開催された。登壇者は杉江松恋と倉本さおり、そして悪童日記の翻訳者である堀茂樹だ。
会場は満席。熱心なファンだらけのイベントが始まった。


■さまざまな解釈を生む『悪童日記』

『悪童日記』は、戦争で田舎の祖母のところに疎開した双子の「ぼくら」が、過酷な日々を生き抜いていく物語。
『ふたりの証拠』はその続編にあたるが、単純な続きではない。『悪童日記』と矛盾するような部分が意図的につくられている。3作目の『第三の嘘』もまた、1作目・2作目と食い違う話になっている。

杉江:三部作は、その仕掛けから、ミステリ界隈からも高く評価されています。
倉本:この構成は『悪童日記』の時点から構想されていたんでしょうか?
堀:アゴタ・クリストフはふつうの顔で何をやるかわからない人。彼女の戯曲を読むと、からくりを作るのが好きな面が見えます。三部作は当初から意識的に三部作として構想されたのではないですが、この作家の想像力のあり方を反映していると思います。

クリストフはまずラジオドラマ用の戯曲を書くことから、彼女にとって外国語であったフランス語での創作活動をはじめた。『悪童日記』の客観的な書き方や、断章的にエピソードが綴られる構成は、戯曲の手法が使われているのだろうと堀は言う。

杉江:『悪童日記』をピカレスク小説として読む見方もあります。生き抜くために「ぼくら」は残酷な行動を起こしますが、そこを切り抜いて読むのはどうなんでしょうか。
堀:もちろんそのような側面はありますけど、それだけに特化している小説ではないですよね。ミステリ的なからくりも本質ではない。戦争というシチュエーションの中の出来事だけど、クリストフは戦争をテーマにしたのではないと思う。インタビューで昔「子どもを書いた」と言っていました。子供が生と死の現実をどう見るか、究極的なものを描いている。怒りも悲しみも喜びもピュアで、ごまかさない、簡素な言葉で書かれています。

三部作が特徴的なのは、登場人物の心情が言葉で描かれないこと。「悲しい」と地の文で書かれることはない。行動や起こった出来事から心情を読み取る作品だ。そのため、見方や解釈は人によって分かれる。

倉本:クリストフは読者の解釈や見方に対して、どんな反応をしていたんでしょう?
堀:解釈を語る人に対しては、クリストフは「ああ、そうですか」と言うだけでした。別に意地悪でそう言ってるわけじゃない、心からどう読まれてもいいと思っている。強いですよね。
杉江:自著に愛着がないわけじゃない。本当に強いと思います。
倉本:映画の脚本に関しても、注文はほとんどなかったと「すばる」の監督インタビューにありますね。1個だけ注文があったのが、「ぼくら」が「豚小屋で寝る」というシーンを作ったこと。「豚小屋で寝れるわけないじゃない! あんたってほんとシティーボーイね!」と怒ったみたいです(笑)。


■パリで漂流中に出会った「掘り出し物」

堀が『悪童日記』に出会ったのは、1988年。パリで、本人の表現によれば「漂流」していた時期だった。下町の小さな書店で、知人の書店員に呼び止められた。

堀:「ホリ、こっち来い。掘り出し物だよ」と差し出されたのが『La Preuve』(日本語題は『ふたりの証拠』)。「これは本当にすごいんだよ」と聞き、まあ騙されてみるかと、1作目にあたる『悪童日記』を買って読み始めましたね。

『悪童日記』はフランス語で書かれている。アゴタ・クリストフはハンガリー出身で、1956年のハンガリー動乱で祖国を脱出し、難民としてスイスに亡命した。彼女は大学に通い、フランス語を習い、戯曲や小説を書き始めた。

堀:『悪童日記』のフランス語はかんたんなのでね、すらすら読めるんです。展開が思っていたのと全然違う方向に行って、驚きましたね。オリジナルだし、ラディカル。ナルシズムがない、ある種客観主義的な、徹底的に抑制された文体。翌日、本屋が開店するのを待って、すぐに2作目を読みました。

その2作目、『ふたりの証拠』のラストに衝撃を受けた堀は、場末のカフェで翻訳にとりかかった。そして帰国後の1989年、同時にレポートを3社に送る。3社とも返事がきた。「一回会おう!」と言ってきたのが、『悪童日記』が出版されることになる早川書房だ。

堀:出版が決まってから、もう一回翻訳を全部やり直しました。心から凄いと思った本をなんとしても「成功」させたくて、なりふり構わなかった。訳者あとがきも、書評を誘うように、誘うようにと、意図的に書いた。今読み返すと、ちょっとえげつないですね(笑)。

初版は7000部。出版ブームだった当時はそれほど多い部数ではない。しかし、書評は膨大に出たのだとか。

堀:当時、『薔薇の名前』の評判が高かったのですが、書評の数だけで言うと『悪童日記』のほうが上回ったそうです。
杉江:『薔薇の名前』のほうは、読み切れてない人が多かったのでは……(笑)。
堀:本に挟んである「愛読者カード」もものすごくたくさん来ました。感想もすごく熱いものが多くて、翻訳をやってよかったなと思いましたね。

愛読者カードは、映画「悪童日記」のパンフレットで引用されている。10代や20代からも反響が寄せられた。

堀:いろいろな方が「いい」と思って、その気持ちが重なっていった。川本三郎さんが私のことを「幸福な翻訳者」と言ってくれたけど、本当にそう。「たとえ売れなくてもいい本を」という考え方もあるけれど、「市場で売れなきゃだめだ!」という意識も本を鍛えます。ただ、そういった意識はあくまでもきっかけを作るだけで、売れたのは結局テキストがすごいからですよ。

1994年に刊行された「ダ・ヴィンチ創刊号(0号)」の表紙の本木雅弘は、『悪童日記』を手に持っている(これは仕込みでもなんでもなく、本当に本木の「好きな1冊」だったのだそう)。これも『悪童日記』の人気を後押しし、大ベストセラーとなった。


■アゴタ・クリストフが来日した1995年

人気絶頂のさなか、1995年にアゴタ・クリストフは来日する。滞在していた2週間のあいだ、堀は通訳を務めている。イベントでは、当時の映像(早川書房の資料室にVHSが眠っていた!)を見ることができた。
ホテルの一室、松花堂弁当をナイフとフォークで食べるクリストフ。貴重な光景だ。

堀:クリストフは寡黙な人。取材のときも、相手が期待しているようなことや、話を面白くするようなことはけっして言わない。随行している娘さんが焦れるほどだった(笑)。こちらが話していると、じーっと目を見てくる。相槌も打ってくれない。あの目で見つめられると、嘘やごまかしはとてもできない。

クリストフへの取材依頼は殺到し、断らなければならない取材も多かった。滞在しているホテルにはひっきりなしに取材が入り、空き時間はサイン本をひたすら作る。ゆっくりするような時間はなかった。

堀:サインしなければならない本が山のように積みあがっていた。でも、クリストフはサインするのは苦じゃなかったらしい。「(昔働いていた)時計工場と同じよ」なんて言ってましたね。
杉江:滞在中、どこかに行ったりは。
堀:京都のお寺や神楽坂に連れていって、そこでは興味を持ったようではあったけど、自分から「ここを観光したい」と興味を持つようなことはありませんでした。滞在中、1回だけ熱心な読者とのプライベートな集まりの場をつくりましたが、そこではとても機嫌がよかった。オフィシャルのレセプションは「茶番」、という意識があったのかもしれない。


■「映画は1つの演奏」翻訳者・堀茂樹の感想

さて、もうすぐ公開する映画「悪童日記」。翻訳者の堀はどのように見たのだろうか。

堀:思い入れがあるぶん、どうしても心配ではあったけど……いい監督に当たったな、と思った。
杉江:小説は固有名詞があえて排されていますが、映画ではそれを設定しなおして描いています。たとえば小説では「ナチス」という名詞は出てこなくて、「将校さん」としか書かれないけれど、映画では襟章で彼がナチスのSSであることがわかります。
堀:そういったところもそうですし、いくつか変更されているシーン、カットされているシーンももちろんあるけれど、映画と小説はジャンルが異なるので、ひとつの解釈、演奏ですね。余計なものがくっついてないし、映像がすばらしい。
杉江:セリフ回しはいかがでしたか? 原作の小説の台詞をけっこうそのまま使っている印象がありましたが。
堀:そうですね。日本語字幕も、原作をそのまま生かしている部分が多かったんじゃないかな。
倉本:「ぼくら」役のジェーマント兄弟も、ハンガリー出身の本物の双子を探したとのこと。ちょっと年齢が上なんですけど、ぴったりハマっていたように思います。
堀:この子たちの顔はバシッと入りましたね。そういえば、原作との違いとして挙げられるのは、「ぼくら」のおばあちゃん。原作ではやせた老婆なんですが、映画ではでっぷりと太っている。「ぼくら」役の男の子二人がある程度の体格をしているので、やせた老婆では彼らを殴ったりするのが難しい。だからこその変更でしょうね。
杉江:ああ、僕もそこ気になってました! 「おばあちゃんって痩せてなかったっけ?」と原作を読み返してしまいました。
堀:全体的に、好感を持ちました。監督の解釈と一読者としての私の解釈は重なっていると思います。

アゴタ・クリストフは、映画の完成を待たずに亡くなった。ただし決定稿の脚本を読んだ彼女は、一言だけコメントしていたのだという。「気に入ったわ」。


映画「悪童日記」
10月3日(金)、TOHOシネマズ シャンテ、新宿シネマカリテほか全国順次ロードショー!


『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』(ハヤカワ文庫epi)
『文盲 アゴタ・クリストフ自伝』(白水uブックス)

Kindle版
『悪童日記』
『ふたりの証拠』
『第三の嘘』

(青柳美帆子)
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