長い間、日本のマット界には「2大メジャー団体」が存在したが、今、全日本プロレスの方はメジャーと呼ぶに憚られる現状がある。一方の新日は、業界で一人勝ち状態。……なのだが、同団体にも暗黒期はあった。
しかし、選手の徹底した新陳代謝を図り、ターゲットとして見定めるファン層から「昭和」をバッサリと排除。棚橋弘至が道場からアントニオ猪木のパネルを外したことからも、決意のもとに“脱却”を試みたことが窺える。
昭和の時代からウォッチし、現在は新日から若干の距離を置く筆者のようなファンからすると、あくまでそういう印象になる。
テリー・ファンクとビートたけしにハマった少年時代の外道
現在の新日本プロレスでは、あの邪道外道が確固たる発言力を持っている。この事実からして、隔世の感。かつてを振り返ると、あり得なかったことだ。それほど「TPG出身」という経歴は、業界において足かせだった。昭和者からすると、KING OF SPORTSを標榜する新日本プロレスとは相容れない存在のはずだ。
とは言え、邪外のプロレスの技術が天下一品であることは百も承知。特に、外道のスキルは別格だろう。
この一冊、本当に半生記なのだ。何しろ、同書は外道の幼少期にまで遡っている。そして、中学入学後に『ビートたけしのオールナイトニッポン』のリスナーになる出来事も綴られている。これが後に大きな意味を持つことは、プロレスファンならばお分かりいただけると思う。
もちろん、たけしだけではない。『全日本プロレス中継』でテリー・ファンクにハマった彼は、当時放送されていた『世界のプロレス』を媒介にミッドナイト・エクスプレスへ心奪われ、アメリカンプロレスをベースに滞りなくプロレス観を形成していくこととなる。そのまま、彼が「プロレスラーになりたい」と心に決めるのは自然な流れであった。
たけし城の横でスクワットに励む日々
だが、当時のプロレスラーの基準に身長が達していない外道。高校を卒業してプータロー生活を送っていた頃、彼に朗報が舞い込んだ。『ビートたけしのオールナイトニッポン』が「TPG(たけしプロレス軍団)の練習生募集!」と告知したのだ。
「オレとしては、とにかくプロレス界に潜り込むきっかけを探しているワケだから、もう対象なんて何でも良かった」(外道)
TPGでは次第にやる気ある者だけが残り、とりあえず少人数を対象としたTPG主催のトレーニングだけは続けられたという。当時については、邪道外道のインタビュー(聞き手・浅草キッド)が掲載された『トンパチ 大槻ケンヂ&紙のプロレス監修』(芸文社)に詳細が記されている。
外道 電話あって、「緑山スタジオに来てくれ」って言われたんですよ。「『たけし城』のセットに来てくれ」って言われて。
博士 そうそう。緑山スタジオ行くと、邪道・外道さんとかが……。
玉袋 セットの横でスクワットやったりして。
博士 上田馬之助さんとか、ストロング金剛さんとかがコーチして。
玉袋 でも、いいコーチじゃない、考えてみれば。
博士 そりゃ、いいコーチだけどさ、ストロング金剛さんとかもなんでこの人たちがいるんだろうって、意味がよくわかってなかったと思う。
外道 ああ、とりあえずスクワットやっとけ、みたいな感じでした。
博士 緑山のスタジオのプレハブの横でさあ、なんか知らないけど、ずーっとスクワットやらされてる人たちがいるんだよ。なんの罰ゲームだろうと思って。
邪道 拷問だよ。
また、TPGは西馬込「マニアックス」(ウォーリー山口経営のプロレスショップ)でも自由参加のトレーニングを週3のペースで開いている。コーチ役は、アポロ菅原。再び、『トンパチ』のインタビューを引用しよう。
玉袋 その時期に菅原さんに習ったことは、結構、血となり、肉となりましたか?
外道 菅原さんに習ったことは、すべてです。
邪道 基本は全部教わりましたから。
玉袋 あっ、そう。じゃ、恩人は菅原さんだ。
外道 そうスね。
邪道 プロレスラー邪道・外道があるのは、菅原さんのおかげですよ、やっぱり。
玉袋 おおぉ、すごいなあ。
邪道 でも、ほかの人に言わせれば、「なんで菅原さんに教わって受け身うまくなったの?」って言われるんですよ(笑)。
そんな明日をも知れぬ時期、「マニアックス」に、なんとあのジェラルド・ゴルドーがやって来た。
みたび、『トンパチ』のインタビューを引用しよう。
邪道 ゴルドーが遊びに来て、「おっ、お前ら出来るじゃねえか、ちょっとやってみるか?」ってことになって。
外道 それであの、ルシア・ライカって知ってます? 女の。あれがメインで興行打つから、「お前らオランダ来て、1試合プロレスやってみないか?」って。
博士 ゴルドーはそれ、なんで来てたの? Uで来た時?
外道 Uで。前田日明としかも、やった時。
玉袋 オランダは、旅費とかは自腹?
邪道 いやいや、向こうが全部。ギャラなしでアゴ・アシだけで。
玉袋 アゴ・アシ(笑)。芸人だよ。
外道 プロレスだけじゃないですよ。
“雑草”どころの話ではない。とんでもない地点から邪道と外道のレスラー人生はスタートしている。これらのエピソードの数々からは、露骨な“地下臭”が匂い立ってくるはずだ。
ユニバ時代も、まだプロレスラーの自覚を持てなかった
邪道外道の流転は続く。まずは大仁田厚から声を掛けられ、外道は大仁田の付き人になった。以下は『トンパチ』での証言だ。
邪道 女の家に送って行って、下で待ってて、朝になったら降りてきて、そんでまた帰るとか。
博士 もう芸人と変わってないよ。芸人の付き人だよ、それ。で、FMWすぐに辞めましたよね?
邪道 その年に辞めました。3ヶ月だったかな。
博士 夜逃げみたいなモン?
外道 自分は夜逃げですね。
邪道 「で、お前はどうするんだ?」って言われて、「どうすっかなあ」と思って。「まあ、あの人あんまり好きじゃないし、辞めてもいいかなぁ」と思って。
その後、「パイオニア戦志」の観戦へ行った際、2人は会場で新間寿恒から声を掛けられ、ユニバーサルに参加することとなる。ここで、邪外の2人は「パニッシュ&クラッシュ」なるコンビを名付けられた。
また、ユニバはグレート・サスケをはじめとする名選手を輩出した団体でもある。当時について、2人は『トンパチ』で以下のように振り返っている。
邪道 あいつ(サスケ)が「辞める」って言ったんですよ、一回。で、みんなで「説得行く」って言って。ピンポン、ピンポンって鳴らしてもいなくて、新聞受けからパッと見ると真っ暗な部屋でベッドの上でうずくまってるんですよ。「この野郎、いるじゃねえか、開けろ!」ってことになってドッカ、ドッカ開けて。まず土足で上がりこんで、そしたらアイツ、タンスの中に隠れ込みましたから。うんこの臭いの香水ってあったんですよ。それを部屋中にガンガン振りまくっちゃって(笑)。
玉袋 ガッハッハッハッ。芸人と一緒だよ(笑)。
邪道 便器にうんこして流さないで帰ってきたりとか(笑)。
しかし、そのユニバでは次第にギャラの遅配が始まってしまった。インディ団体にとって、これは宿命のようなものだ。仕方なく、邪外はアルバイトも行っている。例によって、以下は『トンパチ』での記述だ。
博士 選挙の手伝いとかやってましたよね。それは「スポーツ平和党」?
外道 「スポーツ平和党」で、ユニバーサル、ギャラ出さないから「お前ら『スポーツ平和党』にアルバイト行ってくれ」って言われたんですよ。
邪道 それで●●の人たちと一緒に働いてたんですよ。で、弁当がバンっと運ばれてくるんですよ。食おうかなと思ったら、「ちょっと待って、おいしくするから」って、手かざしなんかしちゃったりして(笑)。
一同 ガハハハハハハハハ。
邪道 「やめろ! まずくなるじゃねえかよ」って。あれはズッコケたな。
この頃、2人はまだ「オレはプロレスラーだ」という自覚を持てなかったらしい。当然か。何しろ、彼らはまだ食えていないのだ。
大きかった冬木、原、「全女」重役との出会い
ユニバを離脱した2人は、新間ジュニアから名付けられた「パニッシュ&クラッシュ」なる名前を捨て、ようやく「邪道外道」を名乗り始めた。これは、映画『仁義なき戦い』で菅原文太が抗争相手を罵る際に吐く「あの、くされ外道が!」というセリフが由来とのこと。そして邪道外道の2人は、まずはメキシコへ渡ることにした。
邪道 とりあえずメキシコしばらく行ってチャンス待とうかなって。
玉袋 いくらぐらい持って行ってました?
邪道 20万ぐらいかな。
外道 だって(飛行機の)チケット代を、ブルドッグKT時代のコスチュームをプロレスショップに売りつけて作ったんですから。
現地ではビクター・キニョネスが2人へコンタクトを取り、誘われる形で邪外はW★INGへ参戦。その後、W★INGのギャラの遅配が慢性化するタイミングで声がかかり、2人はWARへ移籍する。
ここで振り返ろう。外道の基盤にあるのはアメリカンプロレスだ。決して、ルチャでもデスマッチでもない。そんな彼がオーソドックスなスタイルにありつけたのは、実はWARが初めてなのだ。
「デビューして5年が過ぎて、ようやく『ああ。初めてちゃんとしたプロレスができた』っていう感じがした」(外道)
このチャンスを逃すまいと奮闘する彼らを、「お前ら、できるな」と最初に認めてくれたのは阿修羅原だったという。そして原は、自らが率いる「反WAR軍」に2人を誘う。
「敷居の高いWARに参戦して、WARでも快適に過ごせたのは間違いなく原さんのおかげだ。すべて原さんがオレたちに目をかけてくれたおかげなんだよ。あの時、WARで誰からも誘ってもらえず、誰も目をかけてくれなかったら、絶対に『嫌だな。毎日ボコボコにされて……』なんていう、とてつもなくマイナス面なメンタルに陥っていたことだろう」(外道)
そして邪道外道といったら、やはり冬木弘道との出会いがターニングポイントだ。
「冬木さんからは、プロレスの細かいサイコロジーを教わった。試合の組み立て方とか、レフェリーのブラインドを突くテクニックとか、今もオレのプロレスのほとんどは『冬木流』だからね」
「冬木さんからよく言われていたのは『お前みたいに小さい奴はよ、試合を組み立てられるようにならないと生き残れないよ』ということ。勝敗に関係なく、自分で相手を手玉に取って試合を組み立てられるテクニックを持っていないとダメだということだ」(外道)
外道のプロレス人生では、節目節目に好影響を与える存在が出現する。アポロ菅原、阿修羅原、冬木弘道。
いや、それだけではない。ユニバ時代、全日本女子プロレスへ参戦した際に体験したある出来事が、外道にとって大きな糧になっている。
その時は「パニッシュ&クラッシュ vs モンキーマジック・ワキタ(のちのスペル・デルフィン)&MASAみちのく(のちのサスケ)」という試合がマッチメイクされたという。今から考ええるとヨダレものの好カードだが、結果的にこの一戦は大スベリしてしまう。会場がウンともスンとも反応しなかったのだ。試合後、4人は松永国松(のちの全女会長)からカミナリを落とされてしまう。
「松永さんは『お前らの試合にはファイティングスピリットが見えないんだよ。お前らがリングでやっていることは、ただのお遊戯だ。そんなのはプロレスじゃねえ!』って厳しく言われちゃってね。女子プロレスの世界で何度もブームを作り、興行の世界で叩き上げられた松永さんの言葉に、オレはただただ『なるほど』と、うなづくしかなかった。そのショックは本当に大きかった。言葉がグサッと胸に突き刺さるとは、まさにこのことだった。(中略)あの言葉は、オレがプロレスを続けていくうえで一生の財産だ。松永さんには今でも本当に感謝している」(外道)
外道は、昭和者と相容れない現代の新日を象徴する存在? いや、決してそうではなかった。彼は「昭和」からバトンを受け、平成世代へ引き継ぐアンプのような役割を担っている。
「ハッスルみたいなのが流行った時期もあるけど、オレはああいうのも受け付けない。オレのプロレス美学に反する。オレは若い頃に全日本女子プロレスの松永国松さんに『ファイティングスピリットを見せろ』と説教されているからね」(外道)
新生FMW時代の「ブリーフブラザーズ」についても、外道は「くだらねえ」「黒歴史だ」と断言している。
TPG出身者が、遂にアントニオ猪木を認めさせる
流転を繰り返していた邪道外道であったが、FMWを離脱して行く道に迷っていた時、なんと新日本プロレスの方からオファーが掛かった。
「日本国内でプロレスラーとして稼ごうと思ったら、新日本プロレスと契約しないと稼ぐことはできない。(中略)ここで『あいつら使えねえ!』って新日本からダメ出しされてしまうと、いよいよオレは一生うだつの上がらないインディのレスラーって評価で終わってしまうわけだ」(外道)
プロレス人生の勝負どころに直面した外道。しかし、ここで流浪のレスラー生活を送ってきたことが活きた。
「新日本はヨソから来た選手にケンカ腰で突っかかってくる伝統があるからね。その姿勢はトップから若い連中にまで浸透している。(中略)オレたちももういいキャリアだから、そんなことは熟知したうえで『こいつらを伸ばしてやろう』ぐらいの腹づもりで闘っていた。余裕があるし、そういった連中の扱い方もわかってるから慣れてるしね。プロレスにおけるキャリアって、そういう部分で、ものすごい強味なんだよ。(中略)無駄にケガさせられない方法も知ってるし、自分よりもデカい相手と闘って、エルボーとかをガンガン入れられても、身体にダメージを残さない方法も知っている」(外道)
何しろ、邪外はW★INGでヘッドハンターズと真っ向勝負を展開し、WARでは天龍源一郎にボコボコにされる日々を送っていたのだ。
こうしたキャリアで培ったスキルは、メジャー団体のベテランを認めさせている。最初にヒロ斉藤が2人を評価し、「巧いね~、そっちは」と保永昇男も邪外を褒め出した。後藤達俊、小林邦昭といった海千山千からの評価も同様のものだった。
そして。遂に外道は、アントニオ猪木に届いた。
2005年、新日がイタリアへ遠征した際、現地でアニメが放映されていた関係で興行の目玉はタイガーマスク(4代目)にされていたという。その対戦相手に選ばれたのは、外道。これは「外道にしろ!」という猪木からのツルの一声で決まったらしい。加えて、外道は遠征中に猪木から「お前、頑張っているな」と声を掛けられてもいる。
「猪木さんは立場的にも、大きい興行の、目玉となるような試合しか見てないようでいて、実はジュニアヘビー級も含めて、いろんな試合をキチンと観察している」(外道)
猪木の新ライバル、ビッグ・バン・ベイダーを売り出すための企画でしかなかったTPGでプロレス界入りし、そのままないがしろにされてしまった外道が、遂に猪木を認めさせた。「リベンジを果たした」という単純な見方ではなく、“落とし子”がたしかな腕を磨いて帰還した……と捉えた方が、ウォッチャーとしては感慨深い。
「報道陣の囲み取材を受けた際、前夜のタイガーマスク戦が高評価されると猪木さんも満面の笑みで『外道が良かった? オレもそう思うよ。フッフフ』と言ってたそうだ。その一言はオレの勲章でもある」(外道)
オカダに目をつけたのは、古くから伝わる「ビジネスとしてプロレス」の踏襲
現在、外道はオカダ・カズチカの名参謀としての役どころが目立っている。オカダはブレイク前から逸材だった。新日に入団し、再デビューを果たした頃から、外道だけでなく選手間、そして会社内部でも「こいつはモノが違う」という意見で一致していたそうなのだ。
そして、2012年の東京ドーム大会で凱旋帰国したオカダ。彼は、当時IWGPチャンピオンだった棚橋弘至にいきなり挑戦表明をし、会場じゅうから大ブーイングを浴びてしまっている。
その直後、コメントルームに引き揚げてきたオカダにコバンザメのように帯同した外道は「レインメーカーはいただいた!」と強引な獲得宣言をぶち上げ、マネージャー的ポジションを獲得する。
この行動、実は旧来から続くプロレス業界の構図をそのまま可視化させたものである。私のこの見立てには、理由がある。外道は“昔の人たち”、要するに猪木や永源遥などを指して「ビジネスとしてのプロレスを熟知している」と、以下のように評価するのだ。
「永源さんなんかと話をしていると、興行成績的にもテレビ視聴率的にも黄金時代と言われた1980年代に、社長である猪木さんが長州さんや藤波さん、初代タイガーマスクにやらせていたことを全部理解しているもんね。『オレたちが今、飯を食えているのは、全部、猪木さんのおかげだよ。だから猪木さんには感謝している』って言ってた」
「『オレに飯を食わせてくれる人は誰か?』ってことを実に冷静に見ている。それを冷静に見ることができない奴ってのは、それがジェラシーに変化しちゃって『オレはあいつに飯を食わせてもらってるワケじゃない』とか『オレがもっと目立って、あいつらに飯を食わせてやるんだ』なんて方向に流されちゃう。そうなるとビジネスは滅茶苦茶になっちゃうんだ」
なるほど。外道は昔から伝わる方法論を踏襲し、現代のファンへポップな形で提示していたわけだ。
この一冊は、読後感として単なるプロレス本じゃない。確実にキャリアアップしてきた外道が綴るビジネス書として読むと、趣きが変わってくる。
そして、新日が彼を重宝する理由が少なからずわかってくる。外道は、泥水をすすりながら学んできた経験則を現代っ子に伝える“名人”だ。
(寺西ジャジューカ)