◆私が機械の中に存在する? 哲学VS科学
少し遅ればせの書評になったことを御詫(おわ)びの上で、大変面白く読んだことをお伝えしたくなった。一方は長年哲学の立場から人間の意識を相手に苦闘してこられた碩学(せきがく)、もう一方はどちらかといえば若手、AI研究の最前線で活動する工学系科学者。
哲学的に根本的な問題でもある煩瑣(はんさ)な議論が、最前線の神経科学の成果と重なって、個人の「不死」やら、人間の「自己」などといった現実的な問題と密接に切り結ぶ現場が、二人の著者の鋭利な対話を通じて現前されるのが本書、小さな本(新書)と侮るなかれ、きわめて刺激的である。
それにしても冒頭から意表をつかれる。コウモリの世界認知が問われるのだ。いや、コウモリが超音波を使ってある種の世界認知をしている、ということは、科学的分析で判(わか)っているが、そのことが、コウモリとしての自己意識に繋(つな)がっているかどうか、という問いは残る。トマス・ネーゲルの発案になる有名なこの問は、そのまま反射されて人間に向かう。私が、私の世界を認知し、その認識を通じて「私の」意識であることは、どうして成り立つのか。
この問が新しい様相を帯びたのは、まさしくAIを通じて、機械が世界に関する情報処理を行うことが可能になったことによる。一般論として、その可能性を認めれば、「私の」世界認識における情報処理系を機械に移し替える(それがアップローディングだ)ことで、それが「機械の」、と同時に、「私の」意識にとなるのか。もしこの問いにイエスと答えれば、肉体としての「私」は死んでも、「私の」自己意識は機械の中で死ぬことはない。デカルトが『方法序説』でいみじくも喝破した、「私の魂」は私という身体を離れても存在する実体である、という論点が、形を変えて、現実に浮かび上がってくる。
ある観点から見れば、如何(いか)にも問題を無理に作り出しているようだが、そして、お二人の著者の間にも、そうした疑問は生まれたようだが、そして、そこに科学と哲学の差が如実に現れるともいえるが、議論は時に対立しながら、しかし、最後まで、生産的な姿勢を崩さないお二人の著者のおかげで、まれにみる緊張した対話が読者に与えられることになる。
最後まで読んで、提起された難問に明快な回答が得られたわけではない。しかし、人間の尊厳とも関わるはずの自己意識が、機械の中に移し替えられることによって、「私」は「不死」となるや、という問いに含まれる科学と哲学の双方の領域での含意が、今知性を揺るがす最先端の意義をもっていることは、よく了解でき、相互に溶融点を持たないかに見える科学と哲学の本質にも、思いを走らせる絶好の機会が、本書で与えられることだけは、保証できる。
【書き手】
村上 陽一郎
1936年東京生まれ。科学史家、科学哲学者。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。上智大学、東京大学先端科学技術研究センター、国際基督教大学、東京理科大学大学院、東洋英和女学院大学学長などを経て、豊田工業大学次世代文明研究センター長。著書に『科学者とは何か』『文明のなかの科学』『あらためて教養とは』『安全と安心の科学』ほか。訳書にシャルガフ『ヘラクレイトスの火』、ファイヤアーベント『知についての三つの対話』、フラー『知識人として生きる』など。編書に『伊東俊太郎著作集』『大森荘蔵著作集』など。
【初出メディア】
毎日新聞 2025年11月15日
【書誌情報】
意識はどこからやってくるのか著者:信原 幸弘,渡辺 正峰
出版社:早川書房
装丁:新書(184ページ)
発売日:2025-02-19
ISBN-10:4153400408
ISBN-13:978-4153400405