どんな話でも爽やかな冒険小説にできるのである。
フェリックス・フランシスは競馬シリーズで知られるスリラー作家、故・ディック・フランシスの次男である。
ディック・フランシスは元騎手で、引退後の1962年に初長篇『本命』(ハヤカワ・ミステリ文庫)を発表し、作家デビューを飾った。以降の作品は競馬シリーズと総称される。すべて競馬業界が絡んだ内容で、それぞれが独立した話である。ゆえに、どの作品からでも読むことができる。すべて完成度が高く、かつ引きずらない後味の良さがあり、理想的な大衆小説であった。前述のシッド・ハレーは複数作に登場しているが、競馬シリーズでは例外的な存在で、主人公は作品ごとに異なる。
フランシスが小説を執筆するにあたってはメアリー夫人がかなり協力していたという説があった。それが事実であったことは現在、定説となっている。
最中はさておき、『虎口』の内容について紹介しておこう。主人公の〈私〉、ハリイ・フォスターは弁護士資格を持っているが、現在はシンプソン・ホワイト・コンサルタンシーという企業で働いている。専門は危機管理である。ある日、同社の顧客であるシーク・アーメド・カリムに問題が起きた。カッスルトン・ハウスという厩舎が火事になり、七頭の馬が焼け死んだ。その中にはシークが所有する、プリンス・オブ・トロイも含まれていたのである。
本文450ページ程度の作品であり、人間の焼死体が見つかるのは始まって30ページぐらいのところだ。そこまでにハリイがあまり詳しくないのに、競馬の本場ともいえるニューマーケットに派遣されたことや、どのような経緯でシンプソン・ホワイトで働くことになったかも語られる。物語はきびきびと進んでいき、まったく無駄がないのである。そして一つひとつのエピソードがおもしろい。シンプソン・ホワイト入社の顛末は、昔で言う行動型探偵小説のようで、なぜそうするかを一切語らず、フォスターが何をしたか、ということだけを読者に告げて状況を納得させる。エピソード一つでシンプソン・ホワイト社が持つ謎めいた雰囲気とその理由、フォスターの有能さというものまで見せてしまうのだ。キャラクターを立てるとは、本来こういう文章のことを言う。
死体の身元が確定するのはそこからさらに100ページくらい行ったあたりで、すでにカッスルトン・ハウスの人間関係は完璧に書き上げられている。そこからは、厩舎のオーナーであるチャドウィック家の物語になる。
最後まで読み通してみると古典的探偵小説の構造になっていることがわかる。最後にフォスターは関係者を集めて真犯人を指摘するのだ。「名探偵、みんなを集めてさてと言い」式の解決篇としてはかなり変型のものだが、構造としてはそうなのである。真相につながる手がかりも十分に呈示されていた。フォスターはある事実を知って真相に行き着くのだが、それがわかってから前半を読むと、書かれていたことが反転して見えるようになる。
作中で書かれる犯罪は複数あり、一つは非常に忌まわしいものだ。こういう不潔な題材を扱いつつ、それでも汚らしい書きぶりにならないのが競馬シリーズの不思議なところで、非常に健全なのである。おかしいなあ、もっとどろどろになるはずなのになあ、などと呟きながら、汚れてしまった心の読者はページをめくり続ける。いや、フェリックス・フランシスの書き方は絶対に間違っていないのだ。
頭からおしまいまで贅肉と感じられるエピソードがまったくなく、主人公のロマンスさえもスリルを催すためにちゃんと利用される。理想的な、そして万人にお薦めできるスリラーだと思う。出藍の誉れというが、もしかするともう父親より上手いのかもしれない、フェリックス。
(杉江松恋)