中国政府が公認する漢族以外の民族。台湾の高山族を含め、55ある。
民族としての文化・伝統保護を奨励し、自治区、自治州など一定の自治権を認める行政区域を設けているが、「抑圧政策を継続」などと、国外からの批判の声も強い。

■国家統一を最優先する党・政府

 民族分類の実施は「民族識別工作」と呼ばれる。中国の民族識別のベースになったのは、スターリンの民族定義。同定義は「言語、地域、経済生活、および文化の共通性の内に現れる心理状態の共通性を基礎として生じた、歴史的に構成された人々の堅固な共同体」としているが、中国の民族識別には◆所属している人々の独立した民族であるとの意識を重視◆人口が極めて小さなグループも、ひとつの民族と認める場合がある◆国家の統一という政治的効果を重視――などの特徴がある。

 中国共産党・政府は「全民族の団結」を常に強調する。そのため、少数民族の居住地域以外でも重要なイベントで各少数民族の衣裳を着た人が登場する場合があるが、「少数民族の出演者を集めるのが困難」などの考えで、漢族が衣裳だけを着用する場合も多い。
その結果、少数民族の人々には「どうせ形だけ」などの冷めた見方もある。

 ただしモンゴル族やカザフ族など、国境外に自民族の国家がある民族の場合、経済発展が著しい中国と国境外の状況を比べ、中国の一員である方がよいと考える場合も多い。

 中国共産党・政府は民族問題で「分離独立は絶対に許さない」との立場を徹底している。そのため民族政策への批判的な言論は許さない。民族問題での頑なな姿勢の背景には、◆現状が崩れると、国家の統一を保つ上で収集がつかなくなる◆仮に少数民族地域が独立した場合、人口が多く地下資源などが少ない漢族地域が経済的にも立ちゆかなくなる――との考え以外に、「少数民族地域が独立すれば、反中国的な大国の思惑で政策が左右される可能性が大。中国にとって大きな脅威になる」、「清朝末期に沿海州や新疆などの広大な地域を外国に取られた。
これ以上、領土を削る屈辱には耐えられない」など、さまざまな思惑がある。

■優遇政策が「裏目」に出ることも

 中国政府は一方で、少数民族に対する優遇策を実施してきた。一例として、食肉が配給制だった時代、豚肉を忌避するイスラム教信者が多いウイグル族などには、羊肉や牛肉を優先して配給した。唯物主義が強調された当時は「宗教」を名目として使いにくく、「民族の習慣を尊重する」との理由で同優遇策を実施した。

 また、少数民族には産児制限のゆるやかな適用や、大学入試での「点数の追加」の特典もある。入試の点数追加は「教育の機会を多く与える」との理由で民族ごとに定められており、進学率が高い朝鮮族はダフール族(ダオール族、ダゴール族)は対象外とされている。


 しかし、国民には「一定範囲内の尊属に複数の民族がある場合、戸籍に記載される自らの民族を選択する自由」があるため実際には、例えば「祖母の一人が少数民族である」など、本人は漢語(中国語)しか使えず、少数民族の伝統の継承者とはいえない場合でも、少数民族の戸籍を取得するケースも多い。この現象により「民族が水増しされる」と警戒する、生粋の少数民族の人も多い。尊属に漢族しかいないのに、担当する役人を買収して少数民族の戸籍を作る例もあるとされる。

 中国統計局によると、1982年の少数民族人口は6730万人で全人口の6.68%、90年は9120万人(8.01%)、2000年は1億643万人(8.41%)、05年は1億2333万人(9.44%)で、82年から95年までに約83.3%増加した。

 漢族の間には、「なぜ、少数民族というだけで優遇されるのか」との不満の声もある。一方の少数民族の人々からは、「漢族は少数民族に対して無意識な差別感情を持つ場合がある」との不満も聞こえる。


 少数民族の女優のひとりは匿名を条件に、漢族から「××族に、あなたほどすてきな人がいるとは知らなかった」としばしば言われたと証言。少数民族の優遇制度が多いことは事実だとした上で、「心の底で劣った民族だと思っているから、そのような発言になる」と語った。

 なお、上記の女性は自分の出身地域の「分離独立」などについては、完全に否定的。自らは「中国人である」と意識しており、五輪などのスポーツ大会で中国人選手が優勝した場合「うれしくて、涙が出そうになることもある」という。

■清朝の政策変更が民族問題の遠因

 現在、民族問題が表面化することが多いのはトルコ系のウイグル族とチベット族。歴史学者の岡田英弘氏は、問題の遠因は清朝期の政策変更にあると指摘する。


 清朝を樹立した満州族は早い時期からモンゴル族と同盟し、中国統一後はチベット族、ウイグル族などイスラム教徒を漢族から保護することで、自らの地位を安泰にした。当時、西欧近代社会で確立された「国家」、「主権」などの概念は東アジアになく、「独立」の概念もあいまいだった。

 その後、満州族とモンゴル族の軍事力では西欧列強に対抗できないことが明らかになり、清朝は漢人の軍事力に頼るようになった。一方では、イスラム教徒の大規模な「反乱」が発生したため、清朝は大弾圧を行なった。満州族政権が同盟の相手を漢族に変更したわけで、チベット族などにとっては、重大な裏切り行為だったという。

 モンゴル族も、それまで禁止された漢族による長城以北の開拓が解禁され、放牧地を奪われ貧困に陥る人が多かった。
そのため、中国末期から中華民国期にかけて、内モンゴル地域でドゴイロン、ガダ・メイリンなど、土地問題をめぐる武装蜂起が相次いだ。

 辛亥革命により中華民国が成立しても、近代的な国民国家ではなかった清朝の領土が「中国の領土」として、ほぼ維持された(清朝時代の「外モンゴル」は独立。中華民国は認めなかった)。

 写真は中国南部の少数民族、チワン族の祭り。同民族の人口は中国の少数民族で最も多い約1700万人。(編集担当:如月隼人)

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