主人公の金栗四三(中村勘九郎)をはじめストックホルムオリンピックに参加した日本選手団の面々が、1912年秋から翌春にかけてバラバラに帰国する一方で、新たに東京女子師範学校の助教授・二階堂トクヨ(寺島しのぶ)が登場したかと思えば、イギリス留学へと旅立つ。
新キャラ・二階堂トクヨのセリフがタイムリー!
四三が帰国したのは1912年9月。4ヵ月ぶりの日本では、元号が明治から大正に変わっていた。出発のときの盛大な見送りとは打って変わって、新橋駅で彼を出迎えたのは、東京高等師範学校の教員・可児徳(古舘寛治)と野口源三郎(永山絢斗)ら学友数名のみという地味なものだった。しかしストックホルムで満足のいく結果を残せなかった四三は、親しい者だけの出迎えにむしろ安心する。
その夜、小石川の東京高師の寄宿舎では報告会が行なわれる。冒頭に謝罪しながらも、そのあとは土産話でみんなを盛り上げる四三だが、そこへ見知らぬ女性が出てきて、「敗因は何だと思いますか!」と厳しく問い詰められる。それが二階堂トクヨだった。彼女の批判は、オリンピック代表の選考方法にまでおよび、学友からは「つまみ出せ、女のくせに生意気だぞ!」との声があがる。これが彼女の怒りにさらに火をつけた。発言主を野口と勘違いして、彼に「この棚から落ちたぼたもちめ!」と言い放つ。「たまたま男に生まれただけのボンクラ」だというのだ。
二階堂に乗じて、彼女の師である東京高師教授の永井道明(杉本哲太)も、日本の体育が欧米より50年遅れていることが四三たちの敗因だと主張する。これに対し、四三は「ばってん、おる(俺)には4年しかなかです」と反論、次のベルリンオリンピックにも出場し、雪辱を果たすと誓うのだった。
四三はさっそく4年後に向けて独自のトレーニングを開始する。なかでもユニークなのが「電信柱練習法」だ。これは、このころ東京の街に建ち始めていた電信柱と電信柱のあいだを一区間と決め、区間ごとに緩急をつけて走るというトレーニング法である。要は、いまでいうインターバルトレーニングだが、これが一般的に注目されるのは、1950年代にマラソンなど長距離走で活躍して「人間機関車」の異名をとったチェコ(当時はチェコスロバキア)の陸上選手ザトペックが採用して以降のこと。四三はそれよりも40年も早く実践していたことになる。
孝蔵青年、旅に出る。師匠・円喬との別れ
そのころ、初高座のあとちょこちょこ寄席に出演するようになっていた孝蔵青年は、師匠の円喬から、別の師匠を通して地方へドサ回りに出るよう命じられた。当初は、破門ということなのかと渋る孝蔵だが、円喬は「孝蔵にはフラがある」と褒めてくれていたことを知り(しかしフラの意味はわからずじまい)、旅に出ることを決める。
新橋駅では、孝蔵を俥屋の清さん(峯田和伸)と遊女の小梅(橋本愛)が見送るが、そこへ汽車が出るギリギリになって円喬も駆けつけた。円喬は、車窓から小円朝にすがりつくと「大事な弟子貸すんだからよ、倍にして返してくれよな」「フラがあるんだよ、こいつは大化けするんだからよ」と言って愛弟子を託したかと思えば、孝蔵本人には餞別として当時の高級タバコ「敷島」3箱を渡そうとする。彼はもったいないと断るが、円喬は無理矢理に押し付けると、「ちゃんと勉強すんだよ」と言い残して、改札へと戻っていった。だが、その足取りはおぼつかず、それを見た孝蔵は思わず「師匠、俺がフラなら、あんたフラフラじゃないか」とつぶやく……。
天狗倶楽部の解散と「野球害毒論」
このあとも新橋駅では、出発と帰国があいつぐ。1912年11月には、二階堂トクヨがイギリス留学に旅立った。年をまたいで1913年1月には、四三とともにストックホルムオリンピックに出場した三島弥彦(生田斗真)が、ヨーロッパ視察と語学の勉強を終えて帰国、女子たちの歓声のなか駅に降り立つ。
その夜、弥彦の所属するスポーツ団体「天狗倶楽部」では、彼の帰国を祝う会が行なわれた。その席で、銀行員になってもスポーツを続けるとはしゃぐ弥彦だが、吉岡信敬(満島真之介)や押川春浪(武井壮)から、いきなり天狗倶楽部の解散の意向を告げられる。弥彦より10歳上の押川はすでに36歳で、ほかのメンバーも寄る年波には勝てなくなっていた。
時代もまた、軍部が兵式体操を推奨し、競技スポーツを軽視する風潮が強まっていた。そこへ来て「野球害毒論」なるものも出てきて、天狗倶楽部に対する風当たりは強くなるばかりだった。
「野球害毒論」については、劇中で中沢臨川(近藤公園)や女性記者の本庄(山本美月)が読み上げる形で、《野球は賤技なり。相手をペテンにかけよう、ベースを盗もう、計略に陥れようとする》、《姑息なアメリカ人には適するが、英国紳士や日本男児には向かない》という言説が引用されていた。これは当時、第一高等学校(現・東京大学)の校長だった新渡戸稲造が書いたもので、「東京朝日新聞」に掲載された。同紙では、前年の1911年より、新渡戸のほか教育関係者などが寄稿して野球の青年に対する悪影響を説くキャンペーンが展開されていた。天狗倶楽部会長の押川春浪はこれに真っ向から反論する。なお、「野球害毒論」の発信元となった朝日新聞社は、その後手のひらを返し、1915年には全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球大会、夏の甲子園)を開始することになる。
嘉納の留守中に“乗っ取られた”体育協会
三島弥彦に続き、1913年3月には、日本選手団長の嘉納治五郎(役所広司)も、監督を務めた大森兵蔵(竹野内豊)の妻・安仁子(シャーロット・ケイト・フォックス)をともない帰国する。安仁子はこの年1月に夫を母国アメリカで亡くすと、日本への永住を決意していた。事実、彼女はその後、東京に有隣園という児童福祉施設を設立し、1941年に84歳で亡くなるまで後半生を日本での慈善活動に捧げた。
さて、嘉納が東京高師に戻ると、校長室の彼の席は隅に追いやられ、肋木(ろくぼく)で区切られたその一画は物置と化していた。
嘉納を排斥しようとする動きは、すべて永井道明の仕組んだものだった。ここに、競技スポーツの重要性を説く嘉納と、それよりも体操で国民を鍛えるのが先決だとする永井の対立が再燃する。果たして嘉納は、そして日本のスポーツはこれからどこへ向かうのか。
四三の帰郷、そこに待っていたのは…!?
第14話の終盤では、四三と弥彦が再会し、浅草十二階に登ったり、ストックホルムオリンピックの記録映画を見ながら、自分たちのやったことが間違いではないことを確認し合った。
その後、四三は兄に呼ばれて郷里の熊本に向かう。そこで待っていたのは、何と、見合いの席。それも相手は……幼馴染のスヤ(綾瀬はるか)!? 「な〜し、な〜し、スヤさんが!?」と四三も視聴者も混乱するなか、スヤの姑・池部幾江(大竹しのぶ)が現れ、「説明してる時間はなか。続きは来週」と、強引に今夜放送の第15話へとつなぐ。人妻になったはずのスヤが四三と見合いって、本当にどういうことなんだ!
それにしても幾江の最後のセリフといい、久々に遊びの多い回だった(ちなみに第14話は井上剛と大根仁による共同演出だった。大河ドラマでは初の試みとか)。
余談ながら、第14話の放送の翌日、作者の宮藤官九郎がTBSラジオの朝の番組「伊集院光とらじおと」にゲスト出演し、「いだてん」は毎週、近所のサウナでほかの客と一緒に見ていると打ち明けていた。例の大竹しのぶのセリフには、おじさんの客から「ふざけてんな、この大河は!」との声が上がったが、それに対し別の客が「いいんだよ、NHKも最近はこういう軽いのもやるんだよ」となだめていたとか。「いだてん」というドラマは、じっくり見るのももちろん面白いが、そうやってみんなでワイワイ言いながら見るのが一番ふさわしい見方なのかもしれない。
(近藤正高)
※「いだてん」第14回「新世界」
作:宮藤官九郎
音楽:大友良英
題字:横尾忠則
噺・古今亭志ん生:ビートたけし
タイトルバック画:山口晃
タイトルバック製作:上田大樹
制作統括:訓覇圭、清水拓哉
演出:井上剛・大根仁
※放送は毎週日曜、総合テレビでは午後8時、BSプレミアムでは午後6時、BS4Kでは午前9時から。各話は放送の翌日よりNHKオンデマンドで配信中(ただし現在、一部の回は配信停止中)