2010年3月31日、日本武道館のステージに現れた坂本真綾は、最初の3曲を歌い終えて、こう挨拶した。
「こんばんは、坂本真綾30歳です」
この日は、彼女の30回目の誕生日だった。


1996年4月に16歳でアニメ「天空のエスカフローネ」の主役声優に抜擢され、同時に主題歌「約束はいらない」でCDデビューを果たした坂本真綾。2010年は彼女にとって30代を迎える年でもあり、アーティスト活動15周年でもある節目になった。
ベストアルバム「everywhere」を自ら編集し、カバーシングル「DOWN TOWN」に挑戦するなど精力的な活動を展開。そのトリを飾る作品が2011年1月12日にリリースされる7枚目のフルアルバム「You can't catch me」だ。

「2年前に「かぜよみ」というアルバムを作った時、やっと私が思う私らしさに近づけたという達成感があったんです。でも、次も同じ雰囲気を求めて腰を落ち着けてしまったら、この先、何に向かって歌っていけばいいのか分からなくなってしまいそうな気がして。もっともっと違う場所に行ってみようと考えながら作ったのが、『you can't catch me』です」

僕は坂本真綾を〈旅人〉だと捉えている。
10代後半から今に至るまで、さまざまな思いを抱えながらたくさんの曲を作詞し歌ってきたことの比喩だけでなく、彼女は実際に旅行が好きで、時間を作ってはどこかに出かけていく。「かぜよみ」を作り終えた後も、5週間の休みを取ってヨーロッパを一人で巡った。その時、イタリアのとある宿で作った曲が、帰国後にレコーディングされてベストアルバムに収録されることになる。ずっと旅を続けていた彼女が、探していた場所はすぐ近くにあったという想いを綴った、アルバム中唯一の新曲「everywhere」だ。

「私の故郷は東京で、ずっとこの街に住んでいるんですけど、どこか遠い場所、よく知らないくせに地平線とか、現実の暮らしとはかけ離れた場所を舞台に詞を書くことが多かったんです。
でも、パスポートを持って遠くに行くことだけじゃなく、この日常も旅なんだという思いが次第に生まれてきて。『you can't catch me』では自分にとってリアルな、普段の周りの風景を描いていこうと考えました」

「もっともっと違う場所に行く」という渇望と「日常に目を向ける」という意識。それを自分の中で矛盾せずに成立させられるのが、『かぜよみ』と『everywhere』を越えた今の坂本真綾なのだろう。

東京にいても旅は続けられる。
今回、彼女が求めたのは多くの新しい出会いだった。ずっと好きで聴いてきた、そして初めて仕事のパートナーとなるアーティストと曲を作り上げていきたい。
こうして「You can't catch me」では、スネオヘアー、スキマスイッチの常田真太郎、真心ブラザーズの桜井秀俊、キリンジの堀込高樹らが作詞、作曲家として参加することに。さらに鈴木祥子、ROUND TABLEの北川勝利、菅野よう子といったなじみの面々も加わり、多彩な12曲が出来上がった。

「私とは世界観が違う方々と組むからこそ、面白くなると思いました。たとえばスネオヘアーさんの曲に私がボーカリストとして入って、二人の個性がミックスされたらどうなるんだろうと。それともう一つ、今回は男性アーティストに詞を書いていただきたかったんです。男性が描いた詞には自分の詞とは決定的に違うテイストがありますから」

詞と曲、両方を提供したのはスネオヘアー、常田真太郎、桜井秀俊の3人。
坂本真綾が初めて触れる世界がそこにはあった。まずは、一度聴けばスネオヘアーの曲だとすぐに分かる「キミノセイ」。

「この曲はスネオヘアーさんらしさがいっぱい詰まっていて本当にかっこいいです。言葉の選び方や音符へのはめ方も、自分の感覚とは全然違っていて驚きがありました。いきなり『my soul』って言葉が出てきて、私にこれが歌えるのかなと思ったんですけど、実際に声を出してみると不思議なほど体になじむ感覚がありました」

スネオヘアーが坂本真綾のために作り上げた世界を、彼女自身はどう捉えたのか?

「子供っぽくはないけど大人になりきれていない感じの詞が、今の私に合っていて大好きです。やっぱり男の子の詞って……、男の子なんて言っちゃいけない(笑)、男性の詞ってどこか少年性を保ちつつ、割り切れない気持ちを表現するのが巧みですね。女性のほうがむしろそこを打破していく詞になりやすいんです」

スキマスイッチの常田真太郎は、彼女のために遠距離恋愛をテーマにした優しいバラードを作り上げた。タイトルは「ゼロとイチ」。

「ゼロとイチというのはたぶん電話のデジタル信号のことですね。少女のようでもあり大人のようでもある主人公の恋が、とてもかわいいなと思いました。石成正人さんという、私とスキマスイッチさん両方のツアーに参加されている方がサウンドプロデュースを担当して、常田さんの美しいメロディに、私の持ち味を理解した上でのアレンジを加えてくださいました」

真心ブラザーズの桜井秀俊には、初顔合わせの時、アップテンポで元気がいい曲を作りたいと提案された。

「ぜひお願いします、と。
そして出来上がったのが『ミライ地図』という曲です。ここまでカラフルでガーリーな曲になるとは予想していませんでした。男の人が作り出す女の子の歌ってこんなにキラキラしているんだなと。『ミライ地図』というタイトルもそうですが、詞にも私からは絶対に出てこない言葉がたくさん散りばめられていて、男性アーティストのみなさんに詞をお願いしたのは正解だったと思いました」

12曲全て、作曲家とサウンドプロデューサーが違うのが今回のアルバムの最大の特徴。それはどんな効果をもたらしたのか?

「みなさん1曲だけの参加なので、担当された曲に全エネルギーを注いでくだっているのが伝わってきました。全部がシングルのA面と思えるくらいのボリュームなんです。『かぜよみ』を経て、どんな人と組んでも自分自身でいられる、私が歌えば自然に私の歌になっていくという確信が持てたのも大きかったと思います。今回は旅から普段の暮らしに戻って、新しい出会いを楽しみながら作っていきました。日常を舞台にしても、冒険や発見や刺激に溢れた1枚になりました」

そして坂本真綾自身が詞を書いた曲は8曲。そこには、他のアーティストが書いた詞とは違う、彼女ならではの思いがこめられている。後編に続きます。(鈴木隆詩)
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