田中一徳インタビュー(前編)

 1998年夏の甲子園で、延長17回に及ぶ死闘の末に敗れながらも、横浜(神奈川)のエース・松坂大輔から4安打を放ち、その名を全国に知らしめたPL学園(大阪)の田中一徳氏。身長166センチという小柄な体格ながら、1999年ドラフト1位で横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団。

しかし、華やかなドラフト指名の裏には、名門で鍛えられた誇りと、プロの世界で味わった葛藤、そして「もっとできたはずだ」という今も消えない悔しさがあった。横浜高校との伝説の一戦からプロ生活での歩み、さらに指導者を志すきっかけとなった桑田真澄氏の言葉まで、野球人生を振り返ってもらった。

【あの人は今】延長17回の死闘で全国に名を轟かせたPLの1番...の画像はこちら >>

【夏の甲子園で松坂大輔から4安打】

── 今でも伝説として語り継がれている、1998年夏の甲子園準々決勝のPL学園と横浜の試合。延長17回の激闘の末、横浜が9対7で勝利しますが、田中さんはPLの1番打者として出場し、4安打を放つ活躍を見せました。

田中 横浜高の松坂大輔投手が3年、私が2年でした。春の選抜甲子園の準決勝で対戦し、私は1番打者として出場させていただきました。その時に受けた松坂投手の衝撃があまりにも強烈だったんです。だからその経験があったおかげで、夏に再戦した時はある程度対応できたのだと思います。

── 夏は8打数4安打、1三振でした。

田中 センター前とレフト前が1本ずつで、あとの2本は三遊間を破るヒットでした。球種でいうと、ストレートが2本、変化球(スライダー)が2本です。技術的にどうこうというより、とにかく気持ちで打ったという感じでしたね。

── 試合終了後、PL学園の選手たちが、延長17回をひとりで投げ抜き、250球を投じた松坂投手のもとへ次々と駆け寄り、握手を求める姿がとても印象的でした。

田中 春の甲子園で負けてからは、「打倒・松坂、打倒・横浜」だけを考えてやってきました。でも、夏もまた立ちはだかられました。悔しかったですけど、こちらもやれることはすべてやりました。試合後は、もう敬意しかなかったです。

── 松坂投手から1試合4安打を放ったことも高く評価され、翌99年のドラフトで横浜ベイスターズから1位指名を受けました。当時はどのような心境でしたか。

田中 1998年の夏の甲子園のあと、2年生で全日本に選んでいただきました。そのメンバーのなかから、その年のドラフトで松坂さん(横浜→西武)、新垣渚さん(沖縄水産→オリックス※入団拒否)、實松一成さん(佐賀学園→日本ハム)、東出輝裕さん(敦賀気比→広島)、吉本亮さん(九州学院→ダイエー)と、じつに5人がドラフト1位指名を受けました。そういうこともあって、頑張れば「自分も上位で指名される可能性はあるかもしれない」と思っていましたね。

【試行錯誤の7年間のプロ生活】

── プロ入り時の目標は?

田中 もちろん、新人王を獲りたいという気持ちもありましたし、いろいろな目標や意欲も持っていました。ただ、当時の横浜は外野陣が本当に充実していたんです。2番・波留敏夫選手、3番・鈴木尚典選手、6番・佐伯貴弘選手に加え、金城龍彦選手もいて、みんな脂が乗りきっていた時期で、なかなか自分が入り込む余地はありませんでした。

── 田中さんの身長は166センチでした。

プロにも小柄な選手はいましたが、多くは内野手でした。外野手としてプレーするうえで、体の小ささをハンデに感じることはありましたか。

田中 プロに入ってからも、体格の差をそれほど感じることはありませんでした。というのも、自分はもともとホームランを打つタイプの打者ではありませんでしたし、「守り」を軸に、小技を生かして勝負していこうと考えていたからです。実際、プロでは守備固めとして起用されることも多かったですし、自分の役割ははっきりしていました。

── 当時の横浜は1998年に日本一に輝いた直後で、チームには実力者が数多くいました。それだけライバルも多いなか、プロ3年目の2002年には自己最多となる112試合に出場し、44安打を記録しています。そのシーズンはどのような手応えがありましたか。

田中 石井琢朗さんが三遊間へ流し打って、足で内野安打にしてしまうようなプレーや、波留さんのガッツあふれるプレーを間近で見ることができました。そういう先輩たちから学ぶことは本当に多かったですね。

── 田中選手が在籍した時期は、権藤博監督から森祇晶監督、山下大輔監督、牛島和彦監督へと指揮官が次々に交代した時期でもありました。チーム成績も安定せず、さまざまな変化があったと思いますが、そのなかでどのようなことを感じていましたか。

田中 私が現役だった7年間で4人の監督が指揮を執りました。それだけチームの方向性や野球のスタイルも変わりましたし、球団としても過渡期だったと思います。

── 現役7年間で341試合に出場し、75安打、打率.229、1本塁打、13打点、15盗塁、23犠打という成績を残されました。ご自身のプロ野球人生を振り返って、この数字をどのように受け止めていますか。

田中 自分なりにいろいろ試行錯誤しながらやってきました。でも、今になって振り返ると、「もう少し野球ができたのかな」という思いはありますね。それに、当時は人間としてもまだまだ未熟だったと思います。

【セカンドキャリアの原点となった桑田真澄の言葉】

── 延長17回を戦ったメンバーでもある横浜の小池正晃さんは、ベイスターズでチームメイトになりました。

田中 小池さんは、高校時代は1番を打っていましたが、ベイスターズでは2005、2006年と2年連続リーグ最多犠打を記録。チームのなかで確かな立ち位置を築きました。私は、足は速かったのですが、それを武器として確立できなかった。今振り返ると、環境やチーム事情ではなく、自分自身の努力不足だった部分は否定できないと思います。

──  2006年に現役を引退する際、PL学園の14年先輩にあたる桑田真澄さんに相談したそうですね。

田中 あの年は、桑田さんにとっても巨人での最後のシーズンでした。私はまだ現役を続けたいという気持ちが強くて、その思いを桑田さんに相談したんです。すると桑田さんから、「現役時代のプレーに加えて、指導者として還元し終わった時に初めて、"野球"が完結するのではないかな」という言葉をいただきました。その言葉を聞いて、アメリカ独立リーグへ挑戦する決意も固まりましたし、同時に選手としてのキャリアが終わったあとは、指導者の道に進みたいという思いも芽生えました。

── NPBでの7年間で、一番の思い出は何ですか。

田中 一番印象に残っているのは、2001年9月4日に岡山・倉敷マスカットスタジアムで行なわれた巨人戦です。PL学園の9年先輩にあたる入来祐作投手からヒットを打つことができました。あの1本は、今でも強く記憶に残っていますね。

つづく>>


田中一徳(たなか・かずのり)/1981年10月28日生まれ、兵庫県出身。PL学園高では1番打者として活躍し、1998年夏の甲子園では横浜高の松坂大輔から4安打を放つなど全国にその名を知らしめた。1999年ドラフト1位で横浜ベイスターズに入団。

俊足巧打の外野手として期待されたが、思うような結果を残せず、2006年に戦力外通告を受け退団。その後、アメリカの独立リーグでプレーし、NPB復帰を目指したが、獲得する球団は現れず2008年限りで現役を引退した。引退後は拓大紅陵(千葉)、日本経済大などで指導者を務めながら、教員免許を取得。現在は山口県鴻城高校の社会科教諭として教壇に立つ傍ら、硬式野球部部長として選手たちの育成に力を注いでいる。

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