「打倒・大谷翔平」に挑んだ盛岡大附の執念の全記録(前編)

「一関シニアにすごい選手がいる」

 岩手県内の高校野球界で広まる噂を、盛岡大附を率いる関口清治も耳にしていた。しかし、大谷翔平(現・ドジャース)には触手を伸ばさなかった。

「一関シニアの練習場のすぐ近くにある縁もあったでしょうから、一関学院さんに行くものだと思っていたんです。それが『花巻東に岩手の有望な中学生が集まる』という話になっていくなかで、大谷くんも入っていたんです」

【高校野球】「2、3点取ったところで勝てるのか?」 花巻東の...の画像はこちら >>

【盛岡大附に集まった個性的なメンバー】

 大谷が高校に入学する前年の2009年と言えば、最速155キロを誇る左腕・菊池雄星(現・エンゼルス)を擁し、花巻東は選抜で岩手県勢初の準優勝、さらに夏の甲子園でもベスト4に進出するなど、大きなインパクトを残した。大谷をはじめ、多くの球児が花巻東に憧れを抱いたことは想像に難くない。

 岩手で名を馳せていた中学生がこぞって花巻東に集結する一方で、"モリフ"と呼ばれる盛岡大附にも個性的なメンバーが揃った。のちにキャプテンとなる藤田貴暉にエースの出口心海、中軸を担う二橋大地、佐藤廉。"野球どころ"の神奈川から、自らの腕を磨きに実力者たちが門を叩いた。

 北上市出身で小学、中学と大谷のライバルチームで互いに高め合い、個人的にも親交のあった千田新平もそのひとりだった。

 千田は当初、「全国制覇を狙えるメンバーを揃える」と謳い、田村龍弘(現・千葉ロッテ)や北條史也(元阪神)など有望選手が集まりつつあった青森の光星学院(現・八戸学院光星)への進学を望んでいた。それが一転、盛岡大附に進学先を変更したのは、中学での素行が仇となったのだと頭を掻く。

「野球は真剣に取り組んでいたんですけど、学校の生活態度は決してよかったとは言えなくて......。そんなところで自分が希望する高校に行かせてもらえなくなったなかで、モリフの関口監督がわざわざ中学まで来てくれて、校長先生に頭を下げてくれたんですよ。『ここまでしてくれたならモリフに行って、恩返しするしかないな』と思ったわけです」

 北上ゴブリンズに所属していた小学時代から水沢パイレーツの大谷のすごさ、とくに打球の速さと逆方向にも長打を放てるバッティングは、敵ながら嘆息を漏らすほかなかった。

 千田も1年生の春から公式戦でメンバー入りするなど早くも立ち位置をつかんでいたが、大谷はすでに花巻東の4番バッターだった。

 春の県大会初戦で初めて大谷と対峙した監督の関口も、ポテンシャルの高さを実感する。

「まだ体の線は細かったんですが、リーチが長かったんで逆方向にもいい打球を飛ばせますし、空振りも少なかった。1年生の夏の大会でほかの高校相手に投げている試合を見たんですけど、140キロを超えていましたからね。『やっぱりすごいな。順調に育てば3年で150キロは超えてくるだろうな』と」

 春に1対2と惜敗した盛岡大附は、秋の県大会3位決定戦でも花巻東と相まみえた。7回に2番手として登板した「ピッチャー・大谷」と初対戦し、8回に集中打を浴びせて3点をもぎ取っている。

 この時、大谷の最速は143キロ。試合はまたも4対5と落としてしまうが、3学年上の菊池の剛腕を知る関口からすれば、「まだまだついていけるスピードではありました」と攻略の糸口を保てていた。

【大谷翔平を打てないと勝てない】

 盛岡大附にとって、その大谷がいよいよ脅威だと認めざるを得なくなったのが、2年生となった2011年の春である。

 県大会初戦で実現したライバル対決で初めて先発マウンドに立った大谷から、盛岡大附は1点を奪うのがやっとで1対3で敗れた。この試合でスタメン出場した千田は、別次元となっていた大谷を前に絶句した。

「捉えたと思ってもファウルにしかならないっていうか。(左バッターのため)気持ちはライト方向にあるんですけど、打球が全部逆方向なんです。

1回、サードに打ち返したような打席があったんですけど、ただ球威に押されてそこに飛んだだけっていう......」

 大谷の成長曲線は、敵であっても目を見張るものがあった。夏に出場した甲子園、花巻東の背番号1としてマウンドに立った大谷は、初戦の帝京戦で150キロを叩き出した。関口が「順調に成長すれば3年には」と目算していた大台に、2年生で到達したのである。

 そして秋。盛岡大附は大英断に踏みきった。

 県大会準々決勝で、チームは花巻東に1対3で敗れた。しかもこの秋、大谷は故障の影響でバッターに専念していただけに、盛岡大附にとってダメージが残る敗戦でもあった。千田が当時の悔しさを言葉にする。

「ほかの選手には失礼ですけど、花巻東じゃなくて『大谷に負けた』なんですよね。そこからです。『打倒・大谷』になったのは」

 シーズンオフ。キャプテンの藤田を中心にミーティングを重ねる。

この世代は、練習中でも一触即発の雰囲気となるのは当たり前で、監督の関口にも臆することなく向かっていくような、血気盛んな選手の集まり。そんな男たちが進むべき道を定めたのだ。

「オレたちが甲子園に出るチャンスは、あと1回しかない。来年の夏は必ず大谷が投げてくるし、打たないと勝てない」

 だが、すぐに監督の許可は下りなかった。関口が首を横に振った理由を明かす。

「あの頃はまだ、バッティングを信じてなかったですから。全国で打ち勝てるチームが東北にはいなかったですし、ピッチャーを中心に守って耐え抜くという考えが強くて」

 監督に物怖じしない選手たちが、「自分たちは打てるチームになって大谷を倒します!」と食い下がる。関口も「東北で強打のチームなんて聞いたことがない」と説き伏せる。

 1週間ほど続いた問答の末、ようやく関口が彼らの主張を認めた。

「やはり、大谷くんの存在が大きかったです。『9イニングで2、3点取ったところで、はたして勝てるのかな?』と。私も選手も、本気で勝とうとしたから賭けに出られたんです」

【日本一のバッティングをつくる】

 決断してからの関口のアクションは早かった。2011年夏に甲子園準優勝を果たし、強打を印象づけた光星学院の総監督だった金沢成奉(現・明秀日立監督)に「バッティングを指導してほしい」と頭を下げたのだ。

東北のライバルチームとはいえ、関口の出身である東北福祉大の先輩で、現場指導から一線を引いていたこともあり、金沢は快諾してくれた。そして、こう告げられた。

「日本一のピッチャーを倒すんだから、日本一のバッティングをつくるからな」

 週に1日ないし2日、盛岡大附のグラウンドに出向いた金沢の鉄則は、「打席での準備を早くすること」だった。ピッチャーのモーションに合わせるのではなく、「動から動で相手を捉える」といった、自分の間合いで始動しタイミングを取ることを金沢から叩き込まれながら、選手たちがひたすらバットを振る。

「芯に当てる技術があっても、振る力が備わらないと大谷のボールは打ち返せない」と睨んだ関口が、「体がひっくり返るくらいバットを振りきれ!」と発破をかける。

 そこに、新チームのメンバーで大谷と対戦経験のある千田と佐藤が、スピードボールに設定したマシンの軌道を逐一確認しながら「体感はかなり速くボールが来るから、始動をもっと早くしたほうがいい」と助言する。ストレートだけでなく、スライダーのキレや曲がり幅、「カーブは一瞬、浮くからそこを狙え」といった傾向までチームで細かく共有していく。

 盛岡大附の冬は、打ちっぱなしだった。死に物狂い。それくらいの悲壮感があった。千田が雌伏の時を振り返る。

「みんな大谷だけを想定して、朝から夜中まで死ぬほどバットを振りました。

自分たちの代って、個人のことしか考えないヤツばっかりでバラバラだったんですけど、『打倒・大谷』の想いが強すぎてまとまったんです。そのくらい『大谷に勝つ』ことに野球人生を捧げていて......」

【花巻東戦の連敗を5でストップ】

 強大な敵によって結束したチームは、春になると劇的に変化を遂げた。対外試合が解禁された3月になると、1試合で10本のホームランが飛び出ることもあった。いくら選抜で大谷が大阪桐蔭のエース・藤浪晋太郎からホームランを放ち周囲の度肝を抜いていたとしても、花巻東への畏怖はもうなかった。

 春の県大会決勝で花巻東を5対1で下し、「菊池雄星時代」から続いていた連敗を5で止めた。東北大会準々決勝でも、当時1年生だった松本裕樹(現・福岡ソフトバンク)のインローに食い込むカーブをバックスクリーンに叩きこんだ大谷の打棒に驚愕させられたものの、試合は10対9と打撃戦を制した。いずれも大谷は登板しなかったが、関口からすれば夏への手応えを得るには十分な収穫でもあった。

「東北大会で大谷くんがほかのチームに投げた試合では152、153キロだったんで。夏に155くらいまで伸びると想定しても、『それくらいの速さなら』と思っていました。まさかその上を超えていくなんて......」

 夏の岩手大会準決勝。大谷は当時の高校生最速となる160キロを叩き出したのだった。

つづく>>

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