田家秀樹(以下、田家):こんばんは、「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは岡村靖幸さんの「少年サタデー」。4月1日に発売の最新アルバム『操』の収録曲です。テレビ『王様のブランチ』の主題歌でもありました。今月の前テーマはこの曲です。
田家:今月2020年4月の特集は近藤雅信。史上最強A&Rプロデューサー。今はこの岡村靖幸さんの事務所、V4inc.の社長さんであります。近藤さんはアルファレコードを皮切りに東芝EMIの制作宣伝部長、ワーナーミュージック常務取締役、ユニバーサルミュージックのレーベルヘッド、そういうキャリアの中で岡村靖幸さんに出会って今の会社を立ち上げました。1957年生まれ。
近藤雅信(以下、近藤):こんばんは。よろしくお願いします。
田家:先週、音楽人生のかなりの割合でYMOがいろんなことを教えてくれて、そこから始まっているという話がありました。YMOと岡村靖幸さんの繋がりっていうのはありそうですか。
近藤:7、8年前に「ワールドハピネス」に岡村くんが出演をさせていただいて。そのときに3人は初めてライブを観たんじゃないかと思います。おもしろいと言ってもらえて嬉しかったですけど。
田家:近藤さんの中ではYMOがあって、岡村靖幸がいるっていう。
近藤:ポピュラーミュージック、ロック、クラシックもそうかもしれませんけど、先達の優れたものを次の世代にバトンタッチするみたいな側面があるので、そういう要素はあると思いますね。それはYMOだけではなくて、海外で言ったらマイケル・ジャクソンとかいろいろなブラックミュージックのアーティストだったり、ビートルズだったり、日本でもいろいろな歌謡曲のアーティストだったりに岡村くんは影響を受けていますから。その中の一本の筋みたいな形じゃないでしょうか。
田家:岡村さんの話は4週目にじっくり伺おうと思っているんですが、先週はアルファレコードの話が中心でありました。そして85年に東芝EMIに移られるわけです。
近藤:最初の仕事は、本田美奈子の武道館ライブかなにかに行ったのかな。好きだったんですけど、なかなか接する機会がなかった。アイドル好きでしたし。
田家:今までやれなかった場所ができたという感じはありました?
近藤:そうですね。アルファよりいろいろなジャンルのミュージシャンが所属しているし、いろいろなタイプの人がいたから。
田家:80年代後半にかけての東芝EMIを代表するロックバンドというとBOØWYになるわけですが、近藤さんが今週選ばれた1曲目。93年7月発売、布袋寅泰さんで「さらば青春の光」。
田家:いい始まりですね。
近藤:そうですね。聴き惚れています(笑)。当時BOØWYを解散して、『GUITARHYTHM』というアルバムを出して、ヒムロックは自分のソロを出した。僕はそれまでは宣伝時代にBOØWYは音楽専門誌とかで担当させてもらったりしていたんですけど、ちょうど人事異動で制作部長になって、布袋くんがそこのセクションに所属するようになったんです。上司が石坂さんで、布袋寅泰ソロ名義でヒットシングルを作りたいと思った。そこに萩原健一さん主演の『課長サンの厄年』っていう夜9時のドラマ東芝日曜劇場のタイアップが決まって。スマッシュシングルを作るんだということで布袋くんと作戦を練って作った曲がこの曲なんですよ。80万枚くらい売れて彼の最初のソロの代表曲になった。そういうのって一回作ると癖みたいなものが出てきて、そのあと「スリル」とか流れでいい曲ができてきた。そういう時代の幕開けですね。
田家:近藤さんが選ばれた2曲目です。
近藤:サディスティック・ミカ・バンドは僕がとても好きなバンドだった。85年くらいに東芝に高中(正義)さんがいたと思うんですけど、そのあと加藤さんが契約して、小原礼さんがいて、そのときからもう一回ミカバンドをやりたいということが僕の中でムラムラあった。(高橋)ユキヒロさんもいたし、当時は高中さんの事務所の社長だった岡部(良夫)さんという方がいらっしゃったんですけど、岡部さんと作戦を練って作ったのがこのプロジェクトですね。
田家:1985年に「ALL TOGETHER NOW」が国立競技場であった。吉田拓郎、オフコース司会でいろいろな人たちが登場する中に、はっぴいえんども再結成されて、サディスティック・ミカ・バンドはミカさんの代わりにユーミンが入って、サディスティック・ユミ・バンドでライブをやった。そういうのもここにつながるきっかけになっているのかなと思うんですけど。
近藤:「ALL TOGETHER NOW」で「今だから」という曲があったじゃないですか。
田家:財津(和夫)さんと、小田(和正)さんと、ユーミンで。
近藤:あれは、レコーディングメンバーが、ドラムがユキヒロさんで、ギターが高中さんで、キーボードが坂本龍一さん。やったときに、ものすごくよくて。レコーディングもよかったし、作品もいいものができたし、とにかくメンバーから出るエネルギーがすごかったんですよね。
田家:二代目の後藤さんに代わって、オリジナルメンバーの小原礼さんが復帰して、ヴォーカルが桐島かれんさんになって、再結成が実現したというアルバムですね。『天晴』。先行シングルが「Boys & Girls」だった。再結成のときのやりとりも全部ご存知なんでしょうか。桐島かれんさんを入れるとか。
近藤:そうですね。加藤さんのアイデアだったと思うんですけど、全然ビビらないというか。華もあったし、ボーカルの魅力もすごくあったし、ミカバンドのボーカリストとして持っていてほしい要素をいっぱい持っていた。
田家:作詞が小原礼さんと森雪之丞さん、作曲が加藤和彦さん、高橋ユキヒロさん、小原礼さん。以前、加藤さんの特番を追悼で作ったときに、小原さんにお話を伺ったことがあって、小原さんの中で『天晴』は特別なんだよねって。
近藤:後半のYMOなんかもそういう感じでしたね。礼さんはバンドっぽい音楽をずっとやられていた方だから、そう感じたんでしょうね。『天晴』ってタイトルは礼さんですよ。「これ、『天晴』でしょう!」って(笑)。
田家:さて、次なんですけど、近藤さんが選ばれた曲が2曲ありまして。大貫妙子さんの「春の手紙」か長渕剛さんの「乾杯」。2曲ともおかけしたいと思っているんですけど、先に剛さんの「乾杯」をBGMに話を進めたいと思います。長渕さんの「乾杯」は、1980年に一回アルバムで出て、1988年にもう一回アルバム『NEVER CHANGE』で再録されて、それが爆発的に売れた。そのときの担当が近藤さんだった。
近藤:そのときはアーティスト担当という形ではなく、宣伝部でいろんなプロモーションをしている中で、剛さんも一緒にしていたんですね。それまでは剛さんのアルバムをしっかり聴くこともなかったんですけど、気になっていて。拓郎さんとかも僕は好きだったし、歌がちゃんと立っている人ってすごく好きなんです。この曲は、もう1回やるって行為がとてもいいと思っていて。多分提案したのが石坂さんだと思うんですよ。石坂さんが田家さんとのご飯会とか作ってくださったじゃないですか。ふと石坂さんのことを思い出して、この曲はすごく当時思い出深いんですよ。このあと石坂さんは剛さんに「巡恋歌」のカバーをやるように強力に提案して。それもすごくヒットして。ある種の自分の作った曲をみつめて、もう1回時代にあったものとして表現していくっていうアイデアは、当時あったのかもしれないですけど、やった人も提案した人もとても美しい組み合わせだと思ったし、とにかく出来がいいですよね。剛さんとは学年が同じの同い年なんですよ。会ったときに「剛さん、どんな音楽が好きなんですか?」って訊いたら、「俺さ、ジョン・クーガー・メレンキャンプが好きなんでね」って言うんですよ。そうなんだと思って。剛さんから、「俺の帯コピーを考えてくれない?」ってなっていって、一個考えたんですね。それが「路上のファイティングスピリット」っていうコピーなんですけど、それを使ってくれたんですよ。当時けっこう会っていろいろな話をしていましたね。
田家:長渕さんがLAでレコーディングするようになったときですね。
近藤:そうですね。最近そんなにお会いすることはないんですけど、思い出深い人なんですよ。
田家:もう1曲が大貫妙子さんの「春の手紙」を選ばれて、かなり対照的な2曲。
近藤:この曲も大好きな曲です。
田家:これは1993年の曲なんですが、大貫さんはそれまで1991年までミディレコードにいて、東芝EMIに移籍してきた。その辺りも立ち会われていたりしたんですか。
近藤:そうですね。大貫さんはシュガーベイブも学生時代によく観に行っていたグループで、とても好きだったし、大貫さんがソロになって『Grey Skies』を出したときに、すごくよくできているレコードで、ずっと大貫さんのファンだったんですよ。いつか一緒に仕事ができたらいいなと思っていて。たまたまそういう機会が東芝のときにあって、嬉しかったですね。
田家:この曲はアルバム『Shooting star in the blue sky』に入っているわけですが、小林武史さんがプロデュースしている。
近藤:とてもデリケートなツボを抑えたアレンジで。
田家:それまでは坂本龍一さんが多かった大貫さんが小林さんと組んだっていうのは。
近藤:これは大貫さんのチョイスだったと思うんですね。細かいところは知らないんですけど、当時ディレクターのほうから小林武史さんって話があったとき、とてもいいじゃんと話をした覚えはあります。
田家:小林さんに対してはいつ頃から認識されていたんですか。
近藤:ミディ時代に『テスタ・ロッサ』とかソロ2枚出していて。それは聴いていましたし、小泉今日子さんの「あなたに会えてよかった」のプロデュースだったり、高野寛くんの『RING』でアレンジをしていただいたり、いろんなところでお世話になっていたので、とても理解していました。ちょっと音色は違いましたけど、デイヴィッド・フォスター的な部分も持っている人でしたね。
田家:この曲も近藤さんが自分の作品の中のエバーグリーン的なラインナップの中に入っている1曲だと。
近藤:そうですね。素晴らしいです。大貫さんは、今でもたまにお会いしますけど。
田家:お聴きいただいていているのは近藤さんが選ばれた曲ではなく、こちらからこの曲を入れたいなと思ってお送りしています。ORIGINAL LOVEで94年4月に出たシングル「朝日のあたる道」。アルバムは94年6月に出た4枚目で名盤『風の歌を聴け』ですね。このアルバムにA&Rチーフとしてクレジットされているのを見つけまして、これを入れようと思いました。このアルバムの話を聴かないわけにはいかないなというのは、渋谷系というのがあるんです。次におかけする曲が、近藤さんが選ばれたのが、そういう流れの曲だったので、この曲から始めたいなと思った次第です。このアルバムはどんなふうに覚えてらっしゃいますか。
近藤:イケイケの時期じゃないですか。ORIGINAL LOVEとしてもイケイケの時期で。音楽産業が高度に成長していく時期で。98年ぐらいまでレコードビジネス、CDビジネスがグワーっと伸びていく時期で、製作費もけっこう潤沢にあった(笑)。やっぱりある程度使わないといいものは作れないというのはありますよね。各社、いい音で、練りに練った作品が出た時期じゃないですか。
田家:ピチカート・ファイヴとORIGINAL LOVEとフリッパーズ・ギターがちょうど重なり合っているような時期で、田島さんは自分でライブで否定していましたけど、「俺は渋谷系なんかじゃねえよ」って。そういう認識は近藤さんたちの中でもおありになった?
近藤:渋谷系って意識はないですね。むしろそれはコピーのひとつで、あまりそういうことは考えていなくて。それよりも小西くんとかフリッパーズの2人とか、田島くんとか音楽を聴いている量がすごく多い。その豊かな音楽体験を自分の作る音楽に反映できているっていう人たちですよね。細野さんとかもそういうところがあると思うんですけど、持っている音楽の質、数の埋蔵量がともにとびきり多いから、それを風通しよくちゃんと反映できた人たちですよね。それと渋谷のHMVですよね。そこに太田くんっていうバイヤーがいて、一階のコーナー、洋楽・邦楽・雑誌・単行本とか、彼が選ぶ種々雑多なコーナーがあって。そこでハーパース・ビザールのCDとピチカート・ファイヴを並べたらいいみたいなことをやっていて、そこから生まれて行ったんだと思いますよ。渋谷系って名前は。あと、ピチカート・ファイヴもORIGINAL LOVEもフリッパーズ・ギターも、アートディレクターが同じだったんですよ。コンテンポラリーの信藤(三雄)さんって方で、信藤さんの役割も大きいかもしれませんね。ブルーノートの一連のシリーズもトータリティがあるから。ネーミングって、J-POPなんかも、シティミュージックというのもそうですし、ニューミュージックというのもそうですし、ある種のくびきみたいなものは売る側が考えるものだから。
田家:そういう近藤さんが選ばれているのは94年3月に出た小沢健二 feat. スチャダラパーで「今夜はブギー・バック」です。
田家:これを選ばれたのは?
近藤:もともとはスチャダラパーがいろいろなミュージシャンとコラボアルバムを作るという中で、小沢くんと1曲というのが起点なんですけど、小沢くんとスチャダラパーは同じマンションに住んでいたんです。その後、そのマンションはブギーバックマンションってみんなに言われるようになりましたけど(笑)。そのマンションで行ったり来たり交流していく中で、小沢くんはヒップホップの面白さみたいなところをスチャダラパーに教えてもらったんですよ。小沢くんは小沢くんでいろいろ別なものを彼らに伝えて、毎日キャッチボールみたいなことをやっていて、その中で生まれていった。その過程がとてもおもしろかったし、できた作品がなんとも摩訶不思議な魅力的な作品で。当時東芝でマーケティング部みたいなセクションの人に新譜ができたら聴かせたりしていたんですよ。意見を聞いたりして。けっこう理解できない人が多くて(笑)。最高でしたね。
田家:そうだったんだ(笑)。
近藤:「わかりません」みたいなことを言う人が多くて。この作品も、スチャダラパーもCDを出して、小沢くんもCDを出して、売上枚数が100万を超えているんですよ。そういうのが痛快でしたね。
田家:小沢健二についてはフリッパーズギターのときから、彼は才能あるなということは感じていたんですか。
近藤:彼がデビュー直前に、六本木にWAVEっていうCD屋さんがあって、僕もよく買いに行っていたんですけど、買いに行っていたらポリスターの友達がいて、「今度うちでデビューするフリッパーズギターです」って紹介してくれたんですよ。そのとき2人を観たときにすごく華があるなと思った。それが最初の出会いですね。その後、縁があって小沢くんのソロを一緒にやることになって、ワーナー時代にコーネリアスと契約してみたいな。
田家:両方とも繋がっているわけです。
田家:1989年1月に発売になりましたTHE TIMERSのアルバム『THE TIMERS』から「タイマーズのテーマ」。これもこちらが選んでおります。近藤さんからこの話も聴かないわけにはいかないなということでお送りしておりますが、1988年に出たRCサクセションの『COVERS』とこのアルバムもおやりになっていた。
近藤:宣伝担当でした。
田家:THE TIMERSは『COVERS』が発売中止になって生まれた覆面バンドだったわけで、『COVERS』のことは最近いろいろな形でお話されていますもんね。何度か話に出てきている東芝EMIの石坂敬一さんがこのときにこのアルバムは素晴らしすぎて発売できないということで、新聞広告を出して。
近藤:出さないって話は当時の宣伝の上長から話があると言われて個室に呼ばれて、実は出せなくなったという話は聞きました。親父が今のJ-POWER、かつて電源開発という会社で原発にも関わっていたので、親父に原発反対の作品をうちの会社で出すみたいな話をしたら、親父は即座に「雅信、それは出せないぞ」って言われて。妙に親父が言ったことがさめざめと覚えています。
田家:『COVERS』とTHE TIMERSの間に、清志郎さんとのやりとりで覚えていることはあります?
近藤:いろいろな思い出がありますけど、当時の事務所の社長さんでたっちゃんっていう人がいて、ボーヤあがりで、勉強中の人だったんですけど、その人に清志郎さんが「ちゃんと自分でお金を稼がなくちゃダメだ」ということを言っていて。こんなこと言うんだーと思って(笑)。
田家:そういう近藤さんが選ばれた5曲目は、清志郎さんの1993年のシングルです。
田家:近藤さんが曲を選ばれる中に清志郎さんは当然入っていると思ったんですけど、これが選ばれているのは結構意外ではありました。
近藤:この曲は、糸井(重里)さんが詞を書いている、糸井さんから清志郎にこういうコマーシャルがあると。清水建設のCMだったんですけど、曲を作ってくれないって話で作ったそうなんですよ。ディレクターの人から15秒のCM映像を見せてもらって。すごくいいなと思ったんです。すぐ清志郎さんに電話して、あれ、すごくいいですね、フルバージョンないんですか、って訊いたら、あるんだよって言って。もうできてましたね。完パケにはなっていなかったんですけど、アコースティックギター1本で。それを聴かせてもらったらすごくよかったので、これすぐに出しましょうっていって出して。当時はレコード会社も含めて、世の中はCIブーム、コーポレート・アイデンティティということが言われている時代で。これはいいなと思って、東芝の社長のところに行って、「パパの歌」で新聞の東芝EMIの全段広告やりましょうっていって。それで社長もOKしてくれて。新聞全段1枚に広告を打たせてもらいました。それが印象に残っているんです。
田家:清志郎さんの中でも、これはいつかフルバージョンを出したいって気持ちがあったんでしょうかね。
近藤:うーん…。わからないです(笑)。できちゃったのかもしれないし、最初から糸井さんの歌詞は1曲分あったのかもしれないし、どういう意図があったのかはわからないですけど、この歌、本当にじんわりして清志郎らしいと思いますけどね。子供が生まれたときの頃の話で。新聞広告は東芝の社員のお父さんと子供たちと、清志郎と清志郎の息子さん竜平くんが写っているんですよね。
田家:近藤さんの中での清志郎さんのイメージって、こういうところもある?
近藤:そうですね。それはとても自分にとってメモリーなのは、糸井さんが詞じゃないですか? 新聞広告のコピーは僕が考えたんですよ。糸井さんの書いた歌詞のコピーを僕がやったというのは僕的には自己満足しているんですよ。
田家:コピーライターは僕だと(笑)。
近藤:それでビジュアルが東芝のお父さんと子供たち、清志郎と息子さん。コピーはよく覚えていて。「ママ、パパの歌うたってよ!」ってコピーなんです。結構な自信作なんですよ。ギャラは何も出ていないけど(笑)。
田家:RCサクセション、1990年のアルバム『Baby a Go Go』の中の「空がまた暗くなる」。これもこちらで入れておりますが、RCの最後のアルバムです。この「大人だろ」って歌詞が年々染みるようになってきていて、当時より今聴いたほうがいい歌ですね。
近藤:田家さんも僕も「ジジイだろ」って歌ったほうがいいんじゃないですか(笑)。
田家:(笑)。RCの無期限活動休止は『COVERS』とTHE TIMERSがきっかけだったという説がありますが、その辺はどのように。
近藤:うーん。深い理由は僕にはわからないですね。あまりそういうことを聞いたこともないし。『Baby a Go Go』というのは、とても大変な状況で。途中でメンバーが辞めちゃったりとかしましたけど、ヘンリー・ハーシュっていうレニー・クラヴィッツのエンジニアでとても有名な方で、その人に日本にきてもらってやったんですけど、とても好きなアルバムです。最近、斉藤和義さんが『Baby a Go Go』がすごく好きなアルバムらしくて、それを聞いたことがあって、そういう人たちがいるってことは嬉しかったです。
田家:RCの無期限活動休止が1991年1月に発表されたわけですが、近藤さんが今日選ばれた最後の曲がHISの「日本の人」。1991年7月に出たアルバム『日本の人』のタイトル曲です。無期限活動休止のあとの清志郎さんの動きの最初だった。でもHISは清志郎さんと細野さんと坂本冬美さんなわけですが、1990年に東芝EMIの30周年イベント「ロックが生まれた日」というのがあって。これがきっかけになっている。
近藤:1970年代、海外ではモータウンレビューとか、アトランティックショー。あるいはワーナーブラザーズショーと称して、リトル・フィートとドゥービー・ブラザーズがロンドンで公演したりとか、レーベルプレゼンテーションみたいなものがよくあったんです。ああいうことをやりたいなと思っていて、東芝EMIに所属しているミュージシャンの人たち、横の繋がりを作ってイベントをやってみたいなと思って、このイベントを考えたんです。
田家:冬美さんの話ですと、新曲発表を1階のロビーでやっているときに中二階の階段をあがったところの会議室で清志郎さんが取材をしていて、それが終わって出てきて階段で冬美さんのコンベンションを見て、あの子いいねって言ったと冬美さんはいっていました。
近藤:ほぼほぼそのままです。そのときに、冬美ちゃんのコンベンションだったのか、演歌の先生方をお招きしてロビーで歌っていたのか、本人は歌っていたんです。取材の合間に中二階で清志郎さんと2人でロビーを見ていたら、冬美ちゃんが歌っているわけですよ。なかなかいいですよね、みたいなモードになって。細野さんは細野さんで自分のアルバム『オムニ・サイト・シーイング』の時に、こぶしっていうものを意識するという発言をいろいろな音楽誌なんかで言っていて。ある種のケミストリーが生まれるかもしれないなとぼんやり僕の中にあり、とりあえず「ロックが生まれた日」ではTHE MOJO CLUBの三宅伸治と清志郎と冬美ちゃんでグループを組んで。そのときはグループ名がSMIだったと思うんですけど日比谷野音でやったんです。それを細野さんが観にきてくれた。それから徐々に間合いを詰めていったという感じですね。「日本の人」というのは、もともとのメロディはあって。細野さんの『コインシデンタル・ミュージック』っていうコマーシャルの音楽集に入っている曲の中に「中国の人」っていう曲があって。その曲にサビを加えたのが「日本の人」なんです。
田家:細野さんと清志郎さんと両方関わってらっしゃるA&Rは近藤さんくらいでしょう。
近藤:いや、そうか牧村(憲一)さんは「い・け・な・い ルージュマジック」だから教授なんだよな。
田家:はい。でも彼は細野さんのレーベルをやっていましたよね、一時期。
近藤:ノン・スタンダードをやっていました。
田家:そういう意味では両方か。でも清志郎さんとはそんなに近くない。細野さんと清志郎さんと共通するものってありそうですか。
近藤:すごくありますね。直観的にうまくいくなと思ったし、細野さんはアルファ時代にLDKスタジオっていうアルファが作ったスタジオ、¥ENレーベル、細野さん専用のスタジオだったんですけど、そこで作業をやっているときにローリングストーンズのビル・ワイマンが当時A&Mレコードだったので、日本にプロモーションで来たときに「細野に会いたい」っていって会いにいったことがあるんです。それがストーンズのツアーのときだったんですけど、細野さんはビル・ワイマンから「ストーンズを見にこない?」って言われて、1人で行くのは嫌なので、細野さんのかつてのマネージャーで日笠雅水さんって方がいて。その方は清志郎さんとも仲がいいんですけど、手相を見る先生で。その方に相談したら、清志郎さんと行けばいいじゃないということで2人で行ったらしいんですよ。なんか繋がりがあるんですよね。
田家:おもしろいですね(笑)。清志郎さんと細野さんの共通点がもしあるとしたらどういうことなんでしょう。
近藤:漫画がうまい。
田家:あ、細野さん、漫画がありましたもんね。細野観光の展覧会に。
近藤:あと、ユーモア感がある。2人とも東京。シャイ。あと、リズム感がいい。
田家:なるほどね。それで両方とも近藤さんが惹かれていく要素もちゃんと持っている。
田家:「J-POP LEGEND FORUM」近藤雅信Part2。史上最強現役A&Rプロデューサー、株式会社V4Incの代表取締役である近藤雅信さんの軌跡を辿る1ヶ月。流れているのは竹内まりやさんの後テーマ「静かな伝説(レジェンド)」です。こうやって2週間でもまだまだ触れられていないアーティストがいるでしょう。特に東芝EMIの場合はまだ矢沢永吉さんとか甲斐さんとかもいるわけです。
近藤:12年働きましたからね。
田家:YMOの細野さんが先週近藤さんにとって重要な影響力を与えた人だとしたら、清志郎さんというのは東芝EMI時代の近藤さんにどういう人として残っているんでしょう。
近藤:うーん、難しい質問ですね。アルファ時代は、僕は新入社員ですから、20代前半ですし、何も知らない子猫みたいなものなんですよ。子猫がゴロゴロしている感じで、YMO好きって言っていた感じなんですけど、東芝のときは子猫がちょっと大きくなったくらいじゃないですか。部下もいましたけど、この前一緒にご飯にいく機会があったんですけど、当時こんなこと言っていましたよとかいろいろ言われて。「どんなことを俺言っていたの?」って訊いたら、前日言うことと次の日言うことが違うので「近藤さん言っていることが昨日と違います」って言ったら、「ばかやろう、昨日の俺と今日の俺は違うんだ」と言ったというんですよ(笑)。ひどいやつだなと思って(笑)。
田家:先週今週でお聴きいただいたのは、その日の気分の近藤さんの選曲なんですね(笑)。東芝のときは、ブランキー・ジェット・シティとかもあるわけですもんね。たくさんあるので、またこういう話ができたらと思いつつ、来週は2000年代の話も訊いていきたいと思います。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソナリティとして活躍中。
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「J-POP LEGEND FORUM」
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音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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