夏の気配が日に日に濃くなってきた。スーツ姿で街を歩いていると、しばらくしないうちに汗が噴き出し、シャツも半分ほど濡れてしまう。
先日の昼休み、私は少し迷っていた。いつものそば屋でそばを食べようか、それとも中華料理店で冷麺を食べようか―。結局、そば屋の前まで行ったのだが、そこで何か違和感を覚えた。店頭の看板の明かりがなくなっているのだ。ガラス越しに店内をのぞいてみると、そこには何もなかった。
「あれ…?」
驚いて隣の中華料理店の店主に尋ねると、「あのお店なら、もう半年ほど前に閉めましたよ。店主さんも高齢になって、続けるのが難しくなったそうです」と教えてくれた。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にぽっかりと穴があいたような気持ちになった。思い返せば、この小さなそば屋の歴史は、私の名古屋での暮らしの歴史そのものだった。
三十数年前、名古屋大学に留学して間もない頃、この店は開店した。以来ずっと、店主は一人で厨房に立ち、一人で接客を続けてきた。アルバイトや従業員を雇っている姿を見たことは一度もない。
もしかすると、この方は結婚も恋愛もせず、人生のすべてをこの小さなそば屋と、私たち常連客のために捧げてきたのではないか―。そんなことさえ想像してしまう。
私がいつも注文していたのは「五段わんこそば」。消費税を含めても閉店するまで1080円という良心的な価格だった。3カ月に一度くらいしか通わないにもかかわらず、私が店に入ると店主は決まって笑顔で、「今日も五段わんこそばですね」と声をかけてくれた。
他に客がいない時には、少しだけ世間話をすることもあった。店主はどこか照れくさそうな笑顔を浮かべながら、決して多くを語る人ではなかったが、その穏やかな人柄にいつも温かさを感じていた。
そんな店が、今はもうない。静かに閉ざされた扉と、何も残されていない店内を見つめながら、一つの時代がそっと幕を下ろしたのだと実感した。
心の中で店主に感謝を伝えたい―。どうかお元気で。これからはゆっくりと、ご自身の人生を楽しみながら、穏やかな日々を過ごしていただきたいと思う。
その後、中華料理店に入り、冷麺と焼き餃子を注文した。食事をしながら、ふと人生について考えていた。
すると、数日前に東京の八幡宮で見かけた一対のこま犬のことを思い出した。
神社のこま犬は、多くの場合、右側が口を開き、左側が口を閉じている。口を開いたこま犬は「阿(あ)」を表す。これは宇宙や万物の始まりを象徴する最初の音だ。一方、口を閉じたこま犬は「吽(うん)」を表す。すべての終わり、完成、帰結を意味する最後の音だ。
「阿」があれば「吽」がある。始まりがあれば、終わりもある。
一軒のそば屋もそうだし、人の一生もまた同じだ。
私たちの命は、広大な宇宙から見ればほんの小さな存在にすぎない。
人生とは、「阿」から「吽」へと向かう旅路。そして、その旅の途中で出会う人々や風景こそが、何よりもかけがえのない宝物なのだと思う。











